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世界七不思議のペトラ遺跡旅行記

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今年は久しく旅行していない中東に行くか、アフリカのモロッコに行くか悩みました。

モロッコに行くには、イタリア経由で行くのが、ここキプロスからだと好きな経由なのですが、モロッコのベストシーズンは10月半ば、イタリアはこの6月に行ったので、パフォスに引っ越す前にヨルダンに行く計画を立てましたが、色々と検索している間に、モーゼが十戒を受けた場所やパレスチナも含めて、エルサレムに行きたかったので、その後、機会がなく、エジプトに行ったりしている間に、シリアでの内戦も始まり、とうとう、中東に行く機会がないかな?と、思っていたのですが、やっぱり、なぜか?ペトラ遺跡を見に行きたいという気持ちが強くなり、世界七不思議の1つであるペトラ遺跡に行くことになりました。

旅と言うのは、宿探しから始まります。

パフォスの旅行社にヨルダンツアーを訊ねたのですが、皆さん、個人で行かれる人が多い様子でした。

ヨルダンはキプロスと同じで、電車がありません。

ですから、交通機関が車となります。

7月下旬に友人が3日間ほどペトラ遺跡と死海に行ったというので、交通手段はどうしたのか訊ねたところ、レンタカーを借りて、アンマン国際空港から、ペトラへ移動し、その後、死海に行ったという話を聞きました。

その時点で、ペトラ遺跡の宿泊先を探していましたが、10月半ばは4つ星、5つ星ホテルには、その彼らが泊まった値段では、1つ星ぐらいしかありませんでした。

ペトラ遺跡のゲートから徒歩で行けるホテルに予約を入れました。

3つ星ホテルで、レビューも良かったので、それにとても安いので、3泊が死海の1泊と同じ料金だったので、そこのホテルに泊まることに決めました。

その後、アメリカドルやヨルダンの通貨を銀行で手配して貰いました。

先進国よりも通貨が強く、驚きました。

予約先のペトラのホテルから連絡があり、空港へのタクシーでのお迎えを提案されました。

一番の問題が交通手段だったので、アンマンに1泊して、その後、ペトラに移動する為には、1日1本のバスがあるらしく、そのバス停に行くにはどうすれば良いかとか、悩んでいたので、料金も提示してくれたので、お願いすることに致しました。

料金もインターネットで検索しているよりも半額近く安く、ボロボロのタクシーでも目的地に着ければ良いかな?と思い、予約をしておきました。

ほぼ旅に出かけるときには、ガイドブックも買わず、何も学ばないまま行くという2人なので、今の時代は、どこでもWIFI環境もあるだろうとのんきにしながら、1週間の旅行の3時間前ぐらいに、暑いのか寒いのか分からないまま、傘とかも必要かどうか分からず、スーツケースに詰め込んで行くことにしました。

空港近くに車を止めて、そこから、送迎してくれる人に空港まで送って貰い、スーツケースを車から降ろすと、「ヨルダンはビザが必要だよ。だから、ヨルダンパスとか先に購入して置くと良いらしい」と言われて、マイケルも私もパニック、「空港で買えないの?」と、聞くと、イギリス人のその人は「僕は行ったことがないから、奥さんが行って、色々と大変らしかったらしいよ。」と、キプロス人の奥さんとマイケルが話し、「どうする?」と、聞かれて、私は「ビザの事は日本人のブログとかでは触れていなかったし、現地で大丈夫ではないのか?」と、言って、飛行機に乗り込みました。

パフォスの気温は夜でも30度以上だったので、炭酸飲料を機内で飲んでいたら、着きました。

1時間ちょっとで、意外と早く着きました。

アンマン国際空港は広くて綺麗でした。

イミグレに行き、マイケルはビザを購入しました。

日本のパスポート保持者はビザが無料と、驚きました。

その後、荷物を取りに行き、空港にお迎えに来ているハイヤーの運転手さんと会い、ペトラへと向かうことになりました。

既に、午後10時半ぐらいで、マイケルは助手席に座りました。

ボロボロの車かと思いきや、新車らしく、とても綺麗で、この車で空港からペトラまで、3時間半を行くのに掛かるガソリン代の方が高いのではないか?と、思うほど、ドライバーさんは「ペトラから来ました。3時間半待っていました。」と、笑顔で対応してくれました。

車の中でも、WIFIが必要ならば、使えると言われて驚きました。

夜だったので、周りがどんな風景かも分からず、29歳のヨルダン人のドライバーさんは、英語がある程度話せたので、色々と話しをしながら、途中、トイレにも行き、真夜中のヨルダンでのドライブをしながら、4時間以上、掛かり、ホテルに行く途中に、夜景が綺麗な場所に連れて行って貰い、漸く、ホテルに着きました。

チェックインをしたのは、午前1時頃でした。

朝一番に、暑くなる前に、ペトラに行きたかったのですが、朝方、午前5時ぴったりに、モスクからチャントが流れて来て、目が覚めました。

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マイケルに、「チャントが流れ来てから、一緒に歌っていたよ。」と、言われて、意外と好きなチャントなのでしょう。

目覚ましを掛けないで、眠りについたので、起きたときには、8時頃でした。

夜は温度が10度ぐらいで、毛布が絶対に必要でした。

朝食を食べにレストランに行くと、色々な人種の人達が静かに食事をしていました。

その時点でも、どこへ向かえば、ペトラ遺跡の入口ゲートか知らないまま、バックに水を入れて、ダララダと歩き始めました。

 

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ドライバーさんが言うには、10月は観光客が10倍増えると言われているので、宝物殿は人で溢れていると言っていました。

ビジターセンターで、チケットを購入しました。

予想はしていましたが、2人で2日間分とペトラナイトも含めて、36000円ほどでした。

1日分と2日分の違いは、500円ほどですが、ペトラナイトに行くには、入場チケットが必要になるので、同じ日でなければ、どうしても、数日間有効のチケットを購入する必要があります。

ペトラ遺跡は1985年以降、ユネスコ世界遺跡に登録され、2007年7月7日、ポルトガルのリスボンで、新・世界七不思議の1つに認識されました。

ペトラはギリシャ語で、「石」と、言う意味があります。

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日本人のブログでは、岩や崖とか、色々ありますが、小さい石も大きな石も「ペトラ」です。

多分、アフロディーテの生まれた場所がペトラ・トゥ・ロミウと言われていて、ペトラを英語で岩と言っているため、石から岩になっているかも知れません。

さて、そんなペトラの歴史に触れてみましょう。

古代都市ペトラがどの時代に建造されたのかはっきりしないままらしいです。

紀元前1世紀以降には、乳香、没薬、香辛料などの貿易で富を蓄えたネバタイ王国の首都として、ペトラは歴史に示されています。

ローマ帝国に併合された後も、ペトラは繁栄したそうです。

しかし、363年に発生した大地震により、ペトラは壊滅的な被害を受けた後、その頃、貿易路が変わり、ペトラは没落した後、ペトラの町も衰退したと言われています。

その後は、地元のベドゥイン以外には忘れさられた遺跡となっていました。

1812年に、スイス人探検家によって、ペトラ遺跡を再発見されることになります。

それまでは、ベトゥイン以外は、ペトラ遺跡に入ることが出来なかったらしく、スイス人の探検家がベトゥインを説得して、ペトラは魅力的で美しい古代都市として、世界の人々、特に、西欧の人々の知ることになって行きました。

ペトラ遺跡の宝物殿を一躍有名にした映画があります。

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インディアナ・ジョーンズで、この巨大な宝物殿を撮影に利用したこともあり、ペトラ遺跡と言えば、この場所になります。

ペトラの町には、神殿や劇場もあり、ローマ帝国の併合後には列柱道路、また、ビサンチン帝国の影響での時代には、修道院が建設されています。

広大な場所で半日や1日では、全てを見て回ることは出来ないでしょう。

すべてをロバや馬に乗らないで歩くとなると、体力が入ります。

夜は気温が10度でしたが、日中は30度ぐらいになっていました。

日陰にいれば、それほど暑くなかったです。

宝物殿辺りで写真を撮っていると、ベトゥイン人の若い男性や子供に声を掛けられます。

マイケルは写真が撮りたいので、徒歩ですべてを廻りたい派ですが、私はラクダとかに乗りたい派なのですが、驚くほどの値段を吹っかけて来るので、適当に断っていました。

しかし、何度も、何度も、同じ人に、「ロバに乗って、修道院に行かないか?」と、声を掛けられている内に、私がロバと一緒に写真を撮っていると、「ロバに乗って、上まで行こうよ。安くするからさぁ。」と、言われて、値段を聞くと、エジプトでラクダに乗ったときよりも高い値段でしたが、乗る事にしました。

マイケルが乗ったロバと馬とのハーフは賢そうな風合いでした。

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私の乗ったロバは、どうやら、この馬に負けまいと対抗心があるのか、人が歩いているところでも、押しのけて登って行くため、ハラハラドキドキでした。

何度も訓練されているのでしょうが、時間内に850段の階段というより、石、石の連続で、綺麗に整備されていないので、もしも、ロバが一歩でも、階段を踏み外してしまうと、振り落とされて崖へと落とされてしまうかと思うと、ジェットコースターよりも心臓に悪いと思えるほどの勢いでした。

それに、兎に角、人を押しのけて登ろうとするので、何度も他の人に謝り続けることになりました。

喉が痛くなるぐらい、謝り続け、行き成り、動かなくなったので、停留所だと分かりました。

一緒に来ていたベドゥインの若い男性は、毎日、何度もこの階段を上がり下りしているのかと思うと、感嘆してしまいました。

やっと、ロバから降ろして貰い、徒歩で修道院に行くのですが、足ががくがくして、歩くのが困難になりました。

エド・ディルという修道院に到着しました。

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ナバタイ王国最後の王ラベル2世の治世に建造された修道院には、背後部の壁面には十字架が刻まれました。

それが、修道院の名前の由来だそうです。

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ペトラには、教会もあります。

ペトラで物を売ったり、ロバやラクダなどに乗って案内してくれる人は、ベドゥインで、風貌がジョニーデップ似で、ヨルダン人とは顔が異なるので、その背景には、サウジアラビアから難民として、ペトラの町に住み着いたらしく、鼻筋の通っていて、ハンサムな遺伝子なのでしょう。

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英語も完璧に話すことが出来るので、「どこで、英語を勉強したのか?」と、訊ねると、「観光客から」と言っていました。

以前は、ペトラ遺跡の洞窟辺りに寝泊まりしていたそうですが、その後、政府がペトラから少し離れた場所に家を建て与え、住んでいるそうです。

子供たちの姿が気になったので、学校には親が行かせず、行ったとしても、数時間で家に帰らせ、観光客に物を売ったりしているそうです。

学校に行かせる時間が特に、ピークシーズンでは勿体ないと言っていました。

修道院から降りて来る時は、徒歩で帰るからと言ったのですが、ロバたちも待っているからと、言われ、降りるときは、登るときよりも、更に怖く、すべらないか、また、他の観光客を押しのけて、スタスタと行くのですが、心臓に悪い体験をしました。

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宝物殿まで、ロバに乗って帰りました。

宝物殿辺りは、太陽が遮断されているので肌寒く感じ、夕方近くになって来たので、その日は、ペトラ遺跡を後にしました。

夕飯探しに困りました。

マイケルも私も中東の香辛料は苦手で、マイケルは和風ベジタリアンなので、魚は食べるのですが、肉料理はダメで、豆系も香辛料が強いと、食べられません。

ホテルのレストランを見たのですが、ヨルダン料理過ぎて、朝ごはんと同じような感じで、止めました。

うろうろと、近所のレストランを見て回りましたが、肉料理ばかりだったので、他のホテルで食事をすることにしました。

バイキングで料理は豊富なのですが、サラダにも肉が含まれているものが多く、野菜スープとトマトとレタス、デザートはカラフルで美味しかったです。

外国人の観光客が出入りするところでは、お酒も支給してくれます。

ただし、値段は欧州の2倍から3倍は覚悟した方が良いです。

イスラム教徒はお酒を飲まない代わりに、タバコや水タバコを吸っています。

タバコも安い様子ですが、吸わない人に取っては、レストランやカフェでも隣で座れてしまいます。

その日は、疲れたので早く寝ました。

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同じ時間になると、モスクから聞こえて来るチャントで一度、目を覚ましました。

うとうとしていると、また、大きな音が流れて来ます。

アラームセットをしていないので、7時半ぐらいに起きて、身支度を済ませて、レストランに向かいました。

初日にある程度、回ったのですが、他に行くところもないので、ペトラナイトも行く予定でいたので、ゆっくりと、ペトラ遺跡にあるカフェでお茶をしようと思いつつ、シークを通り、宝物殿に行くと、前の日に、「こんな写真撮れるよ。」と何度も近づいて来たベドゥインの男性、マイケルも「行かないから・・・。」と何度も振り放していましたが、交渉が上手いのか、「安くするから・・・。」の言葉に乗せられて、行くことに、自分達で行けるからと言うと、「ここに行くには、僕たちのガイドの許可が必要だから、そこへはいけないよ。」と、言うので、「どうして?」と、訊ねると、「僕たちの領域だから・・・。」と、答えられました。

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根負けしたので、「分かった。行くよ。」と、言われて、通されたところは、何と鉄格子が壊されたところで、普通に、階段を登って行くのかと思いきや、岩、石、階段らしいものはなく、背丈よりも高いところによじ登る、そして、スライドして降りたり、登ったり、塀みたいになっているところもあり、絶対に無理だと思えるところもありましたが、手を引いてくれ、マイケルにも押され、よじ登り、10分で行けると言っていましたが、よろよろしながら、30分以上は掛かっていました。

到着すると、もう、凄い迫力で宝物殿を見下ろすことが出来ます。

写真をスマホで撮影したいたら、マイケルに、そこは危ないからダメと言われて、安全な場所に移動することになりました。

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一歩間違えると、奈落の底に落ちてしまうことになりそうでした。

そんな最中に、フランス語を話す若い男性2人が到着、1人は崖っぷちで写真を撮って貰っていましたが、もう一人は、私が座っていたかなり安全な場所でも、「絶対に無理!」と、友人と言い合いになっていました。

もう一人は、片足で立って、背景が宝物殿で、嬉しそうでした。

その後、カップルがガイドさんにこんな感じで写真を撮って貰っていました。

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足が長くないと、この体制で写真は撮れないと確信できるほどです。

座って汗を拭いていると、足をふらつかせた中国人の女性とガイドが到着しました。

行き成り、私を見た瞬間、「どこから来たの?」と、聞かれたので、キプロスを知らない人もいるので、「日本から」と、応えると、「この人がガイドさん?」と、マイケルを指さして聞かれたので、「いや、主人です。」と、答え。そのまま、ガイドさんに崖の近くに連れて行かれて、写真を撮られていました。

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すこし涼んだので、降りる事にしました。

同じように、よじ登ったり、降りたりと、Tシャツもジーンズも赤い土だらけになりました。

これを一日、1回でも遣れば、身体全体の筋トレになりそうだと思えるほど、辛かったです。

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すこしチップも渡し、その後、また、お決まりのロバやラクダに乗れ乗れ攻撃が始まりました。

足をふら付かせながら、ゆるゆると歩いていると、先ほど会った中国人がロバに乗って、「ハロー」と、声を掛けられました。

その後、初日に美味しかったので、ザクロジュースを涼しいところで飲んでいると、また、ロバに乗って修道院まで行って来たのか、中国人女性がシーク方面に向かっていました。

彼女曰く、「ペトラは3時間だけなの~」と、言いながら、通り過ぎていました。

私たちは、列柱道路、ニンファエウム(水の妖精の泉)、王家の墓、大神殿などを見て回り、夜にもペトラに帰って来るので、早めの夕飯を取ることにしました。

外国人がビールを美味しそうに飲んでいるので、その場所で軽くスナックを食べることにしました。

私はコーラとチキンを食べることにしました。

マイケルは、チーズサンドイッチとビールを飲むことにしました。

コーラは甘くて、炭酸が抜けている感じでした。

マイケルは欧州でいうサンドイッチでなく、コッペパンに、チーズがトッピングされた物で、驚いていました。

給食で長い間食べ続けたので、私も苦手です。

マイケルはコッペパンが苦手で、チーズを摘まんで食べていました。

この量で、料金は、7000円ほどでした。

欧州でも、2000円ぐらいでしょう。コーラの缶がそのまま出て来て、800円ぐらいでした。

夜は寒くなると思い、冬用の服に着替えにホテルに帰りました。

ロッククライミング級で崖から見渡す宝物殿とすでに、2日間で歩き回ったため、筋肉痛、また、歩いて帰り、「夜は、あの馬に乗ろか?」と、言いながら、時間前に入場して、またも、宝物殿まで歩いて行くことに、あの馬車は利用できず、歩くことになりました。

キャンドルが道端に敷かれており、幻想的で綺麗でした。

やっと、宝物殿に到着し、行き成り、暗闇で座った途端に、顔も見えないまま、「早く、早く」と、急かされて、お茶を配って貰いました。

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その時期のイベントで異なるのでしょうか?

1人の男性が歌を歌い、朗読したりしていました。

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その後、目を瞑るように言われ、「願い事をして、目を開けて下さい。」と、言われて、目を開けると、宝物殿がLEDライトで色々な色に変わりました。

LEDライトが利用される前は、どんな感じだったのでしょうか・・・。

30分ほどで終わり、また、ホテルまで歩いて帰ることに、両足に豆が出来ていました。

身体も腰、手足も、筋肉痛になりました。

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きっと、その日は、本当に疲れていたのでしょう。

午前5時になっても、目を覚まさなかった様子です。

ゆっくり起きて、朝ごはん、ほぼ、食欲がなく、ピタパンとひよこ豆のフムスばかり食べていました。

ペトラ遺跡から死海まで3時間ほどと言うので、のんきに11時頃にタクシー運転手の来て貰っていました。

高速道路ではなく、違う道を通ってくれているらしく、ヨルダンは広いということを実感しました。

また、ペトラはあの独特なバラ色の石で成り立っているのだと感心しました。

他は白い砂や石で出来ていて、山らしいところもなく、暑かったです。

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死海のホテルに行く前に、セント・ジョージの教会に行って貰うように頼みました。

行き着いたところは、セント・ジョージでなく、ネボ山と言うところに連れて行かれました。

モーゼが神から授かった「約束の地」を見下ろしながら息を引き取った場所があります。

エジプトのファラオに虐げられたイスラエルの人々を率いてエジプトを脱出し、彼らを約束の地カナンへと導いた預言者、モーゼは、昔、神に背いた罰のせいで、カナンの地へ足を踏み入れることは出来ませんでした。

このネボ山から、約束の地である、「エルサレム」を見渡すことが出来ます。

ネボ山の頂上には、4世紀ごろから教会が作られるようになったそうです。

そこで、ビザンチン時代のモザイクが多く残っています。

ヨルダンでは、モーゼ、ユダヤ関連は無いだろうと思って頂けに、タクシーの運転手に連れて行かれて、驚きました。

シナイ山にも、行き、負の遺産であるアウシュビッツも行きました。

まだ、モーゼとはご縁が続くのでしょうか。

死海のホテルには5時頃に着きました。

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海側のお部屋に通して貰い、プールや死海で泳げる時間を訊ねると、1時間ほど時間があるので、急いで、死海に向かって降りて行きました。

イスラエル側で死海は、ソルトロックで足をマイケルは切ってしまったので、念のために、専用の靴を履いてヨルダンの死海に入りました。

ヨルダン側は、イスラエル側とは異なり、透明感がなく、泥と灰色の石でした。

周りには、日本人観光客も多く、お決まりの本を死海でぷかぷかしながら読みポーズを写真に撮っていました。

私は、スマホを持って行くと、落としてしまう気がしたので、1枚も死海での写真は撮りませんでした。

死海でのホテルは高級でもありませんが、とっても高く、スーパーマーケットもなく、夕飯込みで泊ることにしていました。

食べる物があまりなかったので、カラフルなケーキばかり食べておりました。

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マイケルは1本ビールを頼んでいました。

1本、2000円ほどです。

びっくりするほど高いです。

売店もないので、お水もバーとかで1本600円ほどしました。

スイス並に何でも高いので、本当に驚きました。

次の日も、夕方まで時間があったので、タクシー会社に連絡して、セント・ジョージ教会に行くことにしました。

死海から車で50分ほどの場所に近づくと、建物の雰囲気が変わって来ました。

見慣れた風景の建物は、ビサンチン時代に建てられたものでした。

教会の敷地内は、とても静かでした。

セント・ジョージ教会には、世界で一番古いモザイクで作られたパレスチナ周辺の地図が床に保存されているのが有名です。

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今のエルサレムになります。

以前、イスラエルに行ったときに、ヨルダン川の魚の瀬戸物を買ったのですが、空港でスーツケースを開くように言われて、収めるときの具合が悪かったのか、割れていました。

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魚のシンボルは、生命の樹とともにキリストを表わす2匹の魚で有名です。

帰る途中に、モザイクアトリエに連れて行って貰ったので、大き目なのが一番好きな魚で、イスラエルで見たモザイクと似ていたのですが、とても高く、小さめのモザイクの魚はシシャモのように、やせ細って、これはちょっと違うと思い、思い切って、大きい目なのを購入しました。

ホテルに帰り、夕日が沈む前に、死海で再度、ぷかぷかすることにしました。

泥を身体中に塗り込み、しばらく経って死海で洗い流すときに、目に1滴の死海の水が入り、目が痛い、本当に痛い・・・。しばらく、痛みと戦いながら、タオルで拭いて、ぷかぷかして、シャワーを浴びて、あまり期待していないディナーに行くことにしました。

マイケルは、ほぼ、スープぐらいしか食べる物が無かったので、スープを美味しそうに食べていました。

私も食べ始めると、スープの中に、牛肉があったので、それを教えると、中断していました。

野菜のグリルとトマトを食べていました。

行き成り、動作が凄いのでどうしたのか聞くと、緑色の唐辛子のグリルを口にしたらしく、そんなに辛いのかと、私も1センチほど口にしてみました。

もう、言葉が出て来ないぐらい辛かったです。

甘い物ばかり食べて、甘い砂糖入りの紅茶ばかり飲んでいたので、私は、痩せるどころか太っておりました。

マイケルは、1週間で2キロ以上痩せていました。

死海からアンマンに移動しました。

ペトラ遺跡を見た後のアンマンでの観光はあまりないです。

スケールが小さいため、観光客がパスするぐらいです。

マイケルはヨルダンに行く機内で、砂漠の話をするので、「言ってくれれば、変更したのに。」と、言うと、「好きじゃないでしょう?」と、聞かれたので、アンマンで市場に行くよりは、砂漠で夜空を見たかったと言い返すと、ちょっと、残念そうでした。

観光箇所を廻っていたら、チケット購入場所で、若い西洋人の2組のカップルから「昨日、死海で会いましたね。」と、言われて、「へぇ?」と、返答に応えていると、彼ら達はヨルダンに2週間いたそうで、ほぼ、砂漠にいて、その後、死海と、アンマンに1泊滞在して、アムステルダムに帰ると言っていました。

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マイケルが「砂漠では何をしていたの?」と、訊ねると、「毎日、水パイプを吸っていたわ。」と、オランダ人の女性が言っていました。

とっても、行きたかったような顔つきで、話していました。

アンマンは市場に行ったり、モスクに行ったりしました。

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本当に行くところがなく、カフェもタバコの煙や水パイプの煙でもくもくしているので、オランダ人のカップル達のように1泊でも十分かも知れないと思いました。

ヨーロッパの方が安く感じるというほど、ヨルダンは物価が高い場所でした。

もちろん、中東料理が好きな方とかには、問題ないのでしょうが、独特の匂いは、なかなか、微妙です。

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とっても、楽しかった旅ですが、食べ物はイスラエル側では、パンプキンスープ、ベーグル、スモークサーモン、サラダも豊富でした。

でも、異なる文化を体験出来たことは良かったです。

長い旅行記をお読み下さり、ありがとうございます。

ありがとうございます。

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命より大事な物はない!

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こんにちは!

尋常でないほどのこの度、西日本を中心にした大規模豪雨にて、被害を受けられた方が、ご家族の皆様へ、心からお見舞い申し上げます。

一日も早く、平穏な生活に戻れますよう、心からお祈り致します。

私自身は海外生活が長いのですが、スマホ設定には、故郷の天候状況を設定しています。

先日、兄の誕生日で、連絡を入れたところ、「雨が降っているだけで、何も変わらない」と言っていたので、避難指示が出ていたり、警報がスマホに送られて来ていましたが、これまでの経験から、これほどの被害が出るとは思っていなかった様子です。

次の日に、ニュースを見ていると、豪雨で家が陥没している状態だったので、慌てて、電話をしたのですが、連絡が取れず、姪にSMSでメッセージを入れたのですが、返信もなく、何度か、連絡を入れて、日本時間が午後10時頃に、携帯に兄が出たので、家族の安否確認をしたところ、問題ないとの事でした。

東日本の大震災の光景と似ている状態だったので、豪雨で家が浸かるほど、誰が予想したでしょうか?

避難所に行くのかと訊ねると、「どこも断水しているから、家に居る方が落ち着く」と、言っていました。

断水になっているという情報を理解するまで、時間が掛かった様子で、近所のコンビニやスーパー等を廻ったらしいですが、水は完売していたので、お茶とジュースを買ったそうです。

食料品も何もなく、仕方なく、状況を把握していないレストランでピザを食べたらしく、断水になっているという知らせがあったのは、夕方になってからだったようで、トイレの水も無いので、外出して、トイレの水が流れるところに行ったり、水を確保しに行ったりしたそうです。

私の故郷は、アナログな場所も多いので、井戸があるところが多いので、断水後も、井戸を解放しているところもありました。

兄が住んでいるところは、被害は無かった様子ですが、兎に角、水がないということで、移動するにも、電車も運行していない状態で、車で、移動しようとしても、通行止めになっていたらしく、身動きが取れない状態だったらしいです。

来週の月曜日頃には、断水が解除される予定らしいですが、復旧までには時間が掛かりそうです。

私の故郷と、隣の県は、比較的、自然災害に遭わないというイメージが強く、地元の人達も避難するよりも、家で待機している方が良いと思った人が多いと思います。

深夜遅く、警報が出ても、お年寄りは寝ている人が多かったでしょうし、避難すると言っても、あれこれと準備をしている間に、水位が上がり、身動きが取れない状態になってしまったことでしょう。

あるテレビ番組で、息子さんが、避難しようとお父さんに促していたのですが、なかなか、決断が出来ないまま、次の日の朝、お父さんを説得して、避難しようとしても、電気製品が気になる様子で、大型テレビを2階に持って行っている間に、水が家の中まで、入り、お父さんもやっと、避難することに同意したときには、外の水嵩は1メートルになっていました。

他のテレビ番組では、防災パトロール中の男性の車が水に浸かり、水の圧力で、ドアも開くことも出来ずに、パニックになってしまい、若い男性が車から出るように伝えるのですが、どうしていいか分からない状態に陥ってしまい、窓から、引っ張り出して、助かりました。

私の父も生きていたら、テレビを2階に持って行くお父さんのように、あれこれと、時間が掛かり、説得する間に、喧嘩になり、逃げ遅れてしまう可能性があります。

命よりも大事なものはないのですが、普段の生活習慣から、仏壇をどうにかとか、布団が濡れたら使いものにならないから、あれも、二階に持って行こうと重たい物を担いで体力を消耗してしまい、そのまま、横たわってしまうかも知れません。

あり得ない場所で、あり得ない事が起こることが今回、起きてしまいました。

しかし、命があれば、物は何とかなります。

もちろん、水は絶対に必要不可欠です。

これから、もっと、暑い日が続きます。

一日も早く、穏やかな生活に戻れることをお祈り致します。

被害に遭った方のために、義捐をお願い致します。

個人的に必要のない物を自治体に送るのは控えて下さい。

例えば、千羽鶴、寄せ書き、さらには、洗っていない汚れた服など、もしも、ご自身が同じような被害に遭われたときに、それを貰って嬉しいですか?

相手の身になって下さい。

どうぞ、よろしくお願い致します。

現地で復旧にたずさわっていらっしゃる方々、無理せずに、ご自愛なさって下さい。

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幸運の扉を開くカギのパワーゾーンへの旅に行って参りました。

 

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今年のパフォスでのカーニバルの次の日に、数年前に胆嚢の手術をした後に、傷口が盛り上がって来て、ボタンでこすれて痛痒くなったので、キプロス前大統領の手術をしたという名医のお医者さんに再手術をして貰うために、ニコシアに行く日々が多かったため、今年は旅行に行けないままでした。

私の体質は、ケロイド体質らしく、場所によりますが、胸のあたりの傷と、お臍の中の傷は、少し小さくなりましたが、あまり変わらないです。

最初の手術で糸を使っていたので、気にならなかったのですが、数年後に各火山のように盛り上がり、痛痒くなければ別に良かったのですが、盛り上がり過ぎて、ヒリヒリしたので、手術をして貰いました。

麻酔でお臍をぐりぐりされたときの方が痛く、ドクターの腕を掴んでしまったぐらいです。笑

鑑定の方も休みなく働いていたのですが、やはり、どこかに行きたくなり、今年はイタリアモードでした。

前回のローマの7日間の滞在中に胆石が尿道に移動し、5日間も病院で点滴を受けたりしていたのですが、今回はミラノに決めました。

マイケルの誕生日と、結婚記念日も兼ねて、イタリアに行くことにしました。

マイケルはヨルダンか、モロッコが良いと言っていましたが、6月の中旬の中東やアフリカは暑すぎるので、次の機会に譲ってくれました。

基本、ガイドブックも買わないまま、うろうろするタイプなのですが、今回、ホテルを予約しているとき、ミラノと言えば、名画の【最後の晩餐】を見る事が出来ないか?と、思い、検索していたら、予約制らしく、それも数か月前に予約するらしいので、ダメ元で、チェックしていたら、丁度、最終日に予約を入れることが出来ました。

しかし、イタリア語で、何が書いているのか理解出来ず、まぁ、適当に予約して、ダメだったらダメで・・・。と、思い、予約を完了しました。

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レオナルド・ダビンチの絵は、全くと言って、わざわざ、パリに行っても、ストライキだったり、他の名画もそこにあると情報があるのに、行くと、美術館の工事で、そこにはなく? ダビンチとはご縁がないのか?と、半ば諦めていました。

今回も、壁画を見るために、早く起き、タクシーで15分ぐらいだから、予約していた時間の20分前には、印刷した予約の紙をチケットに交換しないといけないと明記されていたので、30分前までに教会に到着できるように、タクシー乗り場へ行きました。

普段ですと、誰も待っていない光景でしたから、余裕で45分ぐらいあれば、タクシーにて10分プラスぐらいで、行けると思っていました。

しかし、なぜか?スーツを着た人達が同じ時間に、数百人待っていました。

1人ずつ、または、2人ぐらいでタクシーに乗り込むため、全然、前に進みません。

電車でと思いつつ、場所を把握していないので、タクシーの方が良いと思い、30分待って、やっと、タクシーに乗れました。

一度、赤で留まると、次も赤で、その上、混んでいたので、着いたのは、予約していた2分前でした。朝の10時15分から入館できる予定で、時計を見ると、10時13分でした。9時50分頃には到着して置かなけばなりませんが、タクシーに乗ったのが、10時過ぎでした。

グループで入場するらしく、閲覧時間は15分間だけです。

タクシーを降りて、どこに行けば良いかも分からず、紙を見せると、「まだ、2分も余裕がありますよ~?」との答えが、こういうときほど、地中海人の性格だからこそ、すこしおまけしてくれる感じです。

今回もタクシーの中で、やっぱり、ダビンチとは縁はないのね?と、思っていました。

でも、壁画は移動しないので、また、ミラノに来ることになるの?と、思いました。

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今回は、私自身の過去世で生きていた場所に行くことにしました。

天王星が移動したこともありましたので、記憶にある場所に行きたかったのですが、マイケルは「日帰りでも良いのでは?」と、言っていましたが、ミラノから電車で2時間半掛けて、泊らないでミラノに帰るの?と、思い、2日間だけ、ヴェネチアに滞在することにしました。

これまた、ガイドブックを見ない2人ので、電車に着いて、タクシーがある?と思っていたら、ボートタクシーしかなく、インフォメーションセンターの所へ、イタリア人のマダムぽっい女性がそこの行き方だけを教えてくれればいいのに、「どこから来たの?」に始まり、後ろも詰まっているのに、ダラダラと話を続けて、返答する方も早くして頂戴と思いつつ、まだ、終わらない感じでした。

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やっと、満足した話しが出来たのか?

地図に印を付けてくれました。

地図もブックレットを勧められましたが、荷物になるので、普通の地図にしました。

地図代にお金を払い、ボートに乗ることにしました。

荷物は2日間分だけでしたが、自力で歩かないと行けません。

ボートタクシーは高かったので、ボートに乗り込みました。

水のエネルギーが目の前に現れたときは、故郷に帰って来たと思えるほど感動的でした。

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ボートに10分ほど乗って、そこからは、自力でホテルまで、小道と階段を登りおり、何度か、地元に人に訊ねると、気さくに、言葉は分からないけど、ニュアンスは分かる感じで、ホテルに着き、どこかはっきりしないので、地図を見ていたら、ホテルの中から、スタッフの人が出て来ました。

思い切り、教会の前で、分かると思えるのですが、兎に角、道、道、迷路のようで、方向音痴の私には、目じるしにするにも、塀で囲まれていて、一度、迷うと、どこに行っているのかも理解出来ないぐらい中世のヴェネチアにタイムスリップした気分になりました。

ミラノの部屋はモダンな場所を選びましたが、ヴェネチアは、予算の関係もあり、適当に選びましたが、金色と黄色と鏡だらけでした。

広く、こじんまりとしたホテルでしたが、とっても良かったです。

荷物をおいて、一息したら、ランチをしに、水辺の場所に徒歩で行きました。

ゴンドラは30分80ユーロらしく、日差しが強く、イタリアに行く前に天気予報を3か所から見ていた時に、雨、雨、雷雨?温度も、低く、夜も11度?とか、書いていたので、長袖、序に、傘も?と思いつつ、傘はどうしても必要な場合は現地で買っても良いかと思い、荷造りをしたのですが、暑い!空港に着くまで雨が降っていたらしいのですが、晴れました。

それも、暑すぎるぐらい晴れました。

しかし、物価の高さは驚きです。

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ミラノで、最初の日はカンパリクラッシックを飲み、あまりにも、強すぎて、苦みがあるので、アペロールの他のバージョンを飲むことに、メニュには1杯12ユーロと書いていましたが、支払のときに、私がそれを2杯飲み、40ユーロ?訊ねると、「大きいのを飲んだから・・・。」と言われましたが、普通のサイズでした。

次の日に、歩いていたら、凄い大きいサイズのグラスで飲んでいる人がいて、ぼったくられました。

ビールも平均8ユーロから10ユーロでした。

ヴェネチアも同じぐらいでした。

ヴェネチアで飲んでいると、隣の人が巨大なビアジョッキーで飲んでいて、女の子が寝ている片手でグビグビ飲んでいました。

何となく、話始めることになり、その男性はアメリカのコロラドから今日、ヴェネチアに着いたので、奥さんともう一人の娘が買い物中に、ビールを飲みながら、可愛い女の子の子守りをしているということでした。

アメリカ人の彼は、家族でヴェネチアに来たのは初めてで、それも、5日間だけだけど、家から26時間、乗り換えで来たらしく、普段はプライベートのパイロットで、国内を飛んでいるらしく、電車に乗るのが趣味らしいので、今回も他にも行くけど、電車移動らしいとのことでした。

イタリアの新幹線みたいのを私もネットで予約しました。

国営らしい新幹線もありましたが、ミラノからヴェネチアまで2時間半だし、ペイパルで支払出来る会社にしました。

日本で言えば、指定席でした。

値段も安かったので、飲み物も無料で2度ほど貰いました。

電車の中でも、無料でWIFIが使えるので、快適でした。

私にとって、今回のイタリア旅行は、故郷に帰れた気分にしてくれた上に、満喫出来ました。

パフォスに帰ってからも、ヴェネチアにもう少し住んで見たいと思いました。

しかし、自転車もダメらしいので、徒歩でうろうろすることになりそうです。

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幸運の場所に移動することで、自分を知ることが出来ます。

もしも、ご家族の中に、ご病気の方がいた場合、その人の代わりに旅行することも出来ます。

生まれ持った才能を見つけたり、キャリアアップや、名声を得たい時、パートナーとの関係を良くしたい、複雑な人間関係の問題を解決したい、人助けをしたい、自分を変えたい、結婚したい・・・。

行く場所によって、受け取るエネルギーも変化します。

日本国内でも、幸運な場所は人それぞれ、異なります。

未来を良い方向へ変えたい人は、未来が少し予想出来れば、気持ちが楽になります。

老後は、ヴェネチア辺りで絵を描いたり出来ればと夢を膨らませております。

ありがとうございます。

※近日中に、FBページにて、ミラノ&ヴェネチアからのお土産をアップします。

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陰陽の選択によって、運勢が好転する、波動を高め感謝と共に生きて行く~2018年に向けて、国際占い師カズコよりメッセージ

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2018年、時代はどのように変化して行くのか?

 

未来はどうなるのかをチャネリングしたところ、2枚の絵をギリシャの神・ゼウスに見せて頂きました。

 

一枚の絵は、「手相と土星」のシンボルでした。

 

「手相」は、数ある占いの中でも、双子で同じ生年月日であっても、異なる手相になりますし、また、当たる確率が高いことで知られています。

 

手のひらに現れる線は、同じ1本の線でも多くの意味があります。

 

性格、人生、金運、健康、恋愛、結婚、適職等が分かります。

 

手相は、その人の過去や現状を示すと同時に未来をも映し出してくれています。

 

運勢が変われば、手相も変わります。

 

気になる線が出ていても、それは警告であり、必ずそうなるということではありません。

 

手相の役割は、手のひらに隠された才能や弱点などを知り、どこをどう伸ばせば良いのか、どこを回避すれば良いのかを教えてくれています。

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その手相の絵と、「土星」のサインの意味は、また、色は青でした。

 

冬の青い色で、藍色に近い色です。

 

青い色は、大天使ミカエルを司っています。

 

チャクラで青い場所にあたるところは、第5チャクラですが、2018年は、藍色に近いので、第6チャクラを示している様子です。

 

第6チャクラは、第三の目として知られています。眉の間から出て外側に広がり、額の上から鼻の先まで、頭の上部全体を司っています。

 

この第6チャクラは、人生を正確に見る能力を重点的に取り扱います。分析し、論じ、知覚し、理解し、見分け、夢に見て、想像し、そして、心に思い浮かぶ能力が含まれています。

 

この第6チャクラがバランスを保っていると、内面的なパーソナル・ビジョンのセンターとして、活動しています。

 

つまり、「見る、理解する、想像する」ことが、出来るのです。

 

五感からの情報の経験を超えたものからメッセージや閃きをキャッチするのが、第六感です。

 

本来、私たちには、このような能力が備わっていますが、科学の発展によってそれを使う機会が減りました。

 

便利になり過ぎて、備わっている能力よりも、インターネットを通じて、簡単に検索出来たり、他人の思考をそのまま自分の思考だと勘違いしてしまう人も増えています。

 

それが、「土星」を意味している様子です。

 

理論的に説明できないものは信じないという姿勢を持っていると、折角の能力が目覚めません。

 

第6チャクラの活性化が低下していると、頭痛、睡眠障害、記憶力の減退、物忘れが多くなります。

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第六感で閃きを宇宙から受け取ることで、創造的才能が活性化します。

 

人生で出会う人や出来事は、すべて必然的です。偶然はありません。

 

第6チャクラの働きが活性化することで、幸運を呼び込んだり、大きな発見のきっかけを思いついたりなど、思いがけない良い事が起こりえます。

 

内面が純粋であればあるほど、幸運を呼び寄せることが出来ます。

 

「土星 Saturn 」は、制限・束縛・困難・不運を司る惑星です。努力と忍耐を必要とする重い責任や試練をもたらす惑星であるため、暗く重く陰気な凶星として嫌われていますが、必ずしもそうとばかりは言えません。

 

現世を生き抜く経験的知恵は土星からの贈り物ですし、人間は幸福よりも苦労によって鍛えられ、成長することが出来ます。

今は苦しい状況にあっても、素直に、真面目に、正しい道を進んで行くことで、必ず、自分自身の使命を全うすることが出来るでしょう。

 

表面的な人間関係で自分の意思を隠してまで付き合うよりも、世の中の美しい面を探して下さい。

 

他人やメディアなどによって自分の心を同じ「ものさし」で計る必要はありません。

 

愚痴や文句ばかり言う人とは、出来るだけ距離を置いて下さい。

 

毎回、汚れた波動や低い波動の人から偏った言葉を聞き続けると、知らずして、マイナスのエネルギーに包まれてしまいます。

そうなると、自分自身が夢見ていた幼い頃の生き方から遠く離れて行ってしまいます。

 

時には、「良い人」をやめることです。自分の見栄のための「良い恰好」を続けていると、他人は喜んでもらえるかも知れませんが、宇宙や神様は、そのような小さな欲よりも、世の中を正しく見る事を薦めています。

 

さて、第二番目の絵は、タロットカードの「太陽」でした。

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「太陽」の意味は、生命と活力の源泉です。丸い円は完全無欠で、物心両方の充足を表わしています。

 

太陽は、白昼に輝く神性で、色々な姿で象徴されますが、恐ろしい目で表わされることがあります。

 

これは鋭い洞察力を暗示しています。

 

ギリシャ神話の太陽の神様アポロンは、知性の神であるばかりではなく農耕、牧畜、医術、予言、道路、都市の守護、門、文芸の神というように、万能の神として、崇拝されていました。

 

タロットカードによっては異なりますが、その太陽のカードには、大地に座っている2人の子供に、太陽の光がさして、生きる喜びを、強く肯定しているものがあります。

 

太陽の光を受けて、力強く成長していく姿に、永遠の青春を感じさせるものがあるからでしょう。

 

この「青春」という意味では、なぜか、「24」という数字を引いた、1994年頃のあなた自身を思い浮かべ、そのときに、願っていた願い事や夢をもう一度、トライすると、精神的にも肉体的にも、若返ることができるかも知れません。

 

今後の日本はどうなることでしょうか?

 

東京オリンピックが開催される年までは、東京は景気が良い様子です。

 

2018年は、さらに、良くなることが期待できます。

 

もう、数年前から人気ですが、「昭和に流行った物」がブームになることでしょう。

 

また、子宝に恵まれる人も増えそうです。

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しかし、学校教育で正しい行いをしなければならない先生と呼ばれる人が、親からのプレッシャーで、子供を脅かしたり、洗脳したりしている人がメディアを騒がせるかも知れません。

 

シングルマザーや貧困家族にとっては、理解して貰えず、預けるところがないため、弱者である子供たちが、犠牲となるかも知れません。

 

残念なことですが、貧富の差はさらに広がり、本当に苦しんで生活に困る人も増えることになります。そのため、空き巣や万引きが増えてしまうことになるでしょう。

 

動機は何であれ、ごみ出し程度の短時間の外出でも、家を空けるときにはしっかり鍵をかけるようにして下さい。

 

また、空き巣が家に入って取る物がなかったときの腹いせで、ガス栓を開いて、外に出たりする嫌がらせもあります。

 

さらに、ごみ置き場に、ガソリンを撒いたりして、嫌がらせをする人もいます。

 

気をつけていれば、防げることも出来ることもできますから、しっかりと管理して下さい。

 

そして、子供や弱者を利用した、奉仕団体が増えて行く可能性があります。

 

表向きは親切な振りをして、裏では悪知恵を働かせている低い波動で覆われた人達が、ボランティア活動という名で、私利私欲のために、名声や金儲けに走る人も増えることでしょう。

悪い事は人達は、時期が来れば、神様からの制裁があります。

 

2018年も水の事故が多いでしょう。長雨や局地的な豪雨、ゲリラ豪雨といった、雨が多く降ることが予想されます。

 

大きな台風も2017年に被害があった場所を再度、上陸する可能性があるので、被害が心配です。

 

天気予報をマメにチェックし、自分の場所は安全と邁進せず、直ぐに移動できるように、救命道具等も用意して置くことです。

自然災害が起きた時のためにも、防災用品を備えて置きましょう。

 

悪いことばかりを綴りましたが、環境問題についての研究や、豊かな自然を取り戻す計画も進んでいます。

 

また、最後に子供たちの活躍が世界貢献に繋がる団体も登場しそうです。

 

色々な出来事が2018年も訪れることでしょうが、本当の意味であなた自身の魂の向上になるのは、あなた自身の「生き方」です。

 

油断することなく、投げやりになることなく、感謝しながら、ゆっくり波動を高めて生きることで、災難は遠のいて行くことになります。

 

最後に、人はどんなに苦しい中にあっても、他者を助けられるだけの力を持って生まれて来ています。

 

そして、誰かの役に立てたという体験は、決して失われることはありません。

 

日本人として生まれたことに、誇りを持ち、生きて行きましょう。

 

2018年が、あなたにとって幸多き年になりますようにお祈り致します。

 

ありがとうございます。

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いつ行っても楽しめるギリシャ旅行記

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12年振りにギリシャのロードス島に行くことになりました。

 

以前行ったときは、ドイツ人観光客が目立ちましたが、ここ最近は、イギリス人に人気の観光地らしいです。

 

ギリシャで4番目に大きな島のロードス島ですが、キプロスからは、10月の初旬まで直行便が飛んでいたのですが、姪っ子の結婚式は10月14日だったので、キプロスのラルナカから、アテネ経由でロードス島に行きました。

 

パフォスを夜中の1時に出発し、アテネ経由で1時間待ち、ロードス島に到着したのは、午前10時頃でした。

 

ホテルに着いた時間が早かったので、まだ、お部屋の掃除がされていないということで、荷物をフロントに預けていたら、マイケルの義理の弟の親戚たちがエレベターから、ぞろぞろと、降りて来ました。2004年のオリンピックのときに、クレタ島に行き、そこで、一緒にランチを取った親戚たちで、十人ぐらいの人達と挨拶をして、眠気覚ましに、旧市街に行く予定で歩き始めました。

 

マイケルも私も何もリサーチせずの今回の旅行でしたので、ホテルを出て、ビーチを歩いていると、天使の銅像を見つけ、さらに、正教会を見つけました。
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お昼時だったので、ランチを取ることにしました。

 

ヘブライ語の文字があったレストランでギリシャ料理を取ることにしました。

 

なぜか、どこに行っても、ユダヤ関係の場所に引き込まれてしまうのか、地図さえないのにと思いつつ、後で、話に聞くところ、1557年に建設されたカハル・シャローム はギリシャ最古のシナゴーグであり、ユダヤ人たちの活動のピークだったそうで、1920年代には、ロードス島の街の3分の1ぐらいがユダヤ人だったらしいそうです。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人が住んでいた様子ですが、ドイツによるホロコーストによってそのほとんどが移送されたそうです。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、ロードス島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、戦前のような宗教行事は行っていない様子です。

 

地元のビールを飲みながら、猫と戯れていたら、時間があっと言う間に過ぎて行きました。

 

義理の弟から連絡が入り、連絡せずにホテルにすでに到着していたので、驚いていました。

 

次の日に結婚式を控えているので、挨拶に来るというのですが、「無理しないで下さい。」と、言っても、最終的に、ニコシアからの甥っ子がテッサロニキ経由で空港に迎えに行って、ホテルに送って来たときに、5分ほど話すことになりました。

 

甥が、お腹が空いたということで、同じ道を通り、またまた、ギリシャ料理とビールを飲むことになりました。

 

お腹一杯になり、ホテルに帰る途中に、エバンゲリスモス正教会でコンサートが行われていました。

 

終わりぐらいだった様子でしたが、ブックマークとパンフレットを貰いました。

 

そのパンフレットのキリスト、聖母マリアのイコンは見たことがありました。

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そこには、フェオファン・グレク(Theophanes the Greek 1340年 – 1410年, ロシア語: Феофан Грек, ギリシャ語: Θεοφάνης)は、ビザンティン(東ローマ帝国)からロシアに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師としても知られていると書かれていました。

 

ぶらぶらと歩いて帰り、体を休めることにしました。

 

朝、起きて、朝食を取りに行くと、ニコシアからの姪っ子と義理の姉たちとレストランで会いました。

 

彼女たちは私たちよりも、アテネで4時間待ちの飛行機に乗って来たそうでしたが、あまり疲れている様子もなく、「11時頃に私の部屋に来てね。」と、言われて、髪の毛をアップして貰うのに、美容師さんがホテルに来るので、順番が来たら隣の部屋に行くという感じでした。

 

夜は寒い感じがしたので、ワンピースにするか、ロングドレスにするか迷い、ワンピースにしました。

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午後の3時頃に、花嫁と花婿に洋服を着せるというキプロス式の伝統で家から教会に行くことが花嫁の希望だったので、ホテルから、花嫁の新居に車で移動、最初はバスで移動するということでしたが、バスの手配が何かあったのか、義理の弟から電話が来て、「3時半にXXXさんが迎えに行くからね。」と、ギリシャ語で言われて、理解していたが、マイケルがシャワーを浴びているから、掛け直すと言って、電話を切りました。

 

その後、3時半になり、アテネから来た親戚?の車で、花嫁の新居に行きました。

 

まだ、メイク中で、着付けをして行く段階までではなく、何だかんだと、2時間ほど経って、花婿の着付けが始まりました。上に行ったり、下に行ったりしていて既に疲れていました。

 

3人の音楽家が音楽を弾き始めて、花婿に着付けをして行く光景は始めて見たので、楽しかったです。

 

花嫁の部屋にも音楽家たちが、キプロス伝統の結婚式の音楽が流れたので、マイケルは遠慮していましたが、祝福するのに、紐を三回腰の辺りに回して、両頬にキスして、他の人達も同じようにしていました。

 

教会に行く時間になっても、花嫁が下に降りて来ず、すでに、大幅に遅れていました。

 

そこから、車移動で、「どこの教会?」と、聞くと、「エバンゲリスモス教会だ」と言うので、一緒に来た人達の車に乗せて貰って移動しました。

 

教会の外には凄い観光客で一杯、私とマイケルは、観光客と同じように待っていたら、義理の弟に教会の中に入るように指示されて、甥っ子たちは最初の列の椅子に座っていましたが、私たちは外で観光客のように待っていたので、他の招待客で一杯だったので、真ん中の席に座ることにしました。

 

ギリシャ式の結婚式が始まりました。

 

最後に、2つの大きな輪っかを頭に乗っけて、テーブルを3回周り、祝福の言葉を頂きます。

 

またまた、私たちは一番最後に入り、一番最後に出るという感じでした。

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他の人達は、祝福のお菓子を貰うのに、早く出ていたそうです。

 

義理の姉はキプロスからご祝儀を預かって来た人達用に、凄い、これから、売りに行くのかというほどの量を大きな袋だらけでした。

 

花嫁たちが、教会から出て来て、私たちはまたまた、ゆっくりしていたら、今度は、教会から40キロ移動のホテルへ移動することになりました。

 

もう、この時点で、夜の9時頃でした。

 

花嫁、花婿が到着したのが、午後10時頃だったと思います。

 

この時間からの食事は辛いです。

 

コース料理で、最初の前菜と次のギリシャ料理を食べた後は、もう、無理でした。

 

ギリシャワインを注いでくれるので、ごくごく飲んでいると、巨漢のギリシャ僧侶が、マイクを握り、キプロスのお祝いの歌を歌い始めました。

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この僧侶の方とは、どこかで、会った気がするのですが、キプロスに帰って、姪っ子から電話があり、話によると、サプライズだったらしいです。

 

歌った後に、直ぐに、出て行こうとしたのを私は呼び止めて、写真を撮って貰いました。

 

姪っ子曰く、誰とも写真を撮らなかったらしく、私だけの写真のみだったらしいです。

 

その後は、もう、踊る、飲む。が、続きました。

 

義理の弟、コスタがテーブル席に遣って来て、私にワインを注いで貰い、一機飲みをすることになりました。マイケルには止められましたが、まぁ、お祝いの席だったので、飲みました。2杯続けて飲んだら、姪っ子も遣りたかったのか、3杯の一機飲みは、人生で初めてでした。その後、知らない人達からも誘われて、一緒に踊ることになり、もう、シンデレラタイムを過ぎていたので、眠りたいと願い、隣の席の人達も同じホテルに帰るので、1時半頃に、まだまだ、朝方まで続いて行くパーティ会場を後にしました。

 

次の日、朝食を取っている姪っ子に聞くと、彼女たちは2時半のバスでホテルに帰り、6時頃まで、続いたらしく、特に、3時ぐらいからが盛大だったらしいです。

 

ニコシアから来ていた姪っ子たちは、月曜日から仕事があるので、今回は、ほぼ、結婚式だけのために、ロードス島だけでした。

 

私たちは、13年振りのアテネも行く予定にしていました。

 

アテネも、マイケルに「どこのホテルに泊まるの?」と、聞かれ、「どこだったかな?」と、アテネに到着して、「この住所だけど、タクシーにする?それとも、メトロ?」と、聞くという、のんびりモードでした。

 

以前は、誰かが迎えて来てくれた記憶がありました。

 

義理の妹の家に泊った記憶がありました。

 

多分、花嫁の姪っ子が、迎えに来た覚えがあります。

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今回は、ロードス島のホテルは姪っ子が予約を入れてくれていたのですが、アテネのホテルは、シンダグマ広場から近いところに自分で予約を入れたのですが、タクシーで横付けは出来ないらしいホテルということだったので、メトロにしました。

 

スーツケースを持ってうろうろして、数分後、「この通りだよね。」と、言って、ローレックスの時計屋さんのガードマンにマイケルが道を尋ねると、「ここに行きたいの?」と、聞かれ、「ここはとっても、とっても、遠いよ。」と、言われて、「どれぐらい遠いの?」と聞き返すと、指で示されたところは目の前でした。

 

スーツケースを置いて、シンダグマ広場に行きました。

 

動いては行けない、ガードの人達。

 

以前は写真を隣で取れましたが、最近はダメみたいでした。

 

その後、アクロポリスまで、歩いて行き、午後6時までに外に出ないといけないらしかったので、その反対の場所の大理石の丘みたいなところに登りました。

 

ツルツルした大理石をビーチサンダルで歩いている人を見ると、見ている方が怖くなりました。

 

帰りに、日本食を食べ、お風呂に入りました。

 

アテネも日中は29度で、ほぼ夏の気温、ちらほらとジャケットを着ている人もいますが、かなり、暑かったです。

 

次の日も、歩いて、アクロポリスまで行きました。

 

行くと、長蛇の列でした。

 

待っている間も、日差しが暑すぎました。

 

13年前に行ったときの入場料は10ユーロぐらいだったと思います。

 

今回は、20ユーロでした。さらに、修理中で、近くで写真は無理でした。

 

それでも、多くの観光客で埋め尽くされていました。

 

頂上から見る景色は格別でした。

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パルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシャ神話の女神アテーナーを祀る神殿とされ、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われたそうです。パルテノン神殿は古代ギリシャ建築を現代に伝える最も重要なドーリア式建造物の最高峰と見なされているらしく、装飾彫刻もギリシャ美術の傑作と言えるのも頷けます。また、この神殿は世界遺産に認定されています。

 

お天気も良すぎたので、流行りのインスタグラム撮りで、若い人達が大理石の上で、何度も、ジャンプしていました。
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その後、滑った人がいたらしく、働いている人に痛み止めの薬を塗って貰っていました。

 

どこのコーヒーショップも人で溢れていました。

 

値段も他のヨーロッパと同じぐらいですから、物価が安いということもなく、また、イメージ的にはギリシャ人は働かないということもなく、話によると、拘束される時間が長い上に、給料は安い感じです。12時間労働は当たりまえですが、給料は安いそうです。

 

ギリシャ人はそれでも陽気な人が多く、ギリシャ語を少し話すと、嬉しいらしいです。
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水曜日に、マイケルのフィルムカメラの調子が悪いので、ホテルから歩いて、7分ぐらいのところにある、ライカのショップに行きました。

 

水曜日はお店が1時頃に閉まることをすっかり忘れていて、反対側の道に渡り、ふらっと見ていると、タロットリーディングをするお店らしいのを発見しました。

 

閉まっていたので、次の日に来て、英語で占って貰えるならと思い、次の日に、ライカのショップに行くと、修理するところを教えて貰い、その前に、タロットリーディングして貰えるか、その場所に行くと、アシスタントの人が出て来て、「ここで、待っていて、次ね。」と、言われて、私は待っていました。

 

マイケルはうろうろして来るからというので、待っていたら、中に入るように言われ、マイケルに電話して、「これから、中に入るからね。」と言って、入りました。

 

ニューエイジ系の物を売っている様子はなく、リーディングが主みたいでした。

 

英語で会話が出来るので、タロットリーディングをお願いしました。

 

コーヒーリーディングも出来ると言われましたが、タロットの方が良いらしいと可愛いアシスタントの方に言われました。話によると、予約制だけど、特別に途中割り込んで、リーディングして貰いました。待っている人には恐縮でした。

 

最近は、2011年にロンドンでSAGBのアランさんとのシッティングが最後でした。

 

人生で一番凄いと思った霊能者はSAGBのテリーさんで、いつ行っても、会えることなく、今に至っています。

 

今回のギリシャ人のタロットリーダーの方は、タロットを沢山使って、色々と見て下さったのですが、とても、良い事ばかり言って下さいました。

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逆に、何度も、良い事ばかり言われると、本当?と思ってしまうほどでした。

 

良い事ばかり言われると、怠け癖のある私にとっては、未来にそんなに良い事があるなら、努力を怠るので、注意することも言って欲しかったです。

 

また、「あなたは気づいていないけど、あなたは、とてもモテるは、ご主人がいても、他にも男性があなたを慕っているわよ。」と言われも、全然、嬉しくはなかったです。

 

兎に角、未来は素晴らしいらしいそうです。

 

今回のギリシャの旅は、良く笑いましたし、さらに、踊る、食べるで、体重が3キロも増加しました。

 

ありがとうございます。

 

お別れの日まで  帰国

振り返ってみると、2011年3月11日は東日本の大震災、さらに、キプロスも7月11日に海兵隊の倉庫が爆発した為に、1ヶ月半も一日平均4時間ほどの突然停電が続き、それでなくても、8月のキプロスは砂漠のように暑く、猛暑が続き、11月になっても暑い日が続いていた。
週に2回ほど国際電話で父と話す習慣があった。
去年の年明け頃から、喉の調子が芳しくないと病院に通っていた。
悪性の胃がんだと診断され、手術をしてから5年以上経って、私が言っても、他の人が老人ホームに入るように言っても、首をたてに振ることなく、頑なに拒み続けていた。
支援1から支援2にして貰い、通いのヘルパーさんが週に何回も来ると、気兼ねするからと言っては、私にあれしてくれ、これしてくれと依頼する度に、「時差があるから、明日になるからね。」と言うと、「なんで、今日中に出来ないだ。」と腹を立て、私と度々、電話で喧嘩になったりした。
昭和一桁の父世代は何でも自分でしなければ気が済まない性分だったうえ、難聴者の父には、誰かと共同生活は苦痛に感じたのであろうと思える。
2年に一度、父に会いに帰国していたので、2011年の秋ごろに帰ろうと思いつつ、国難の日本に帰ることを躊躇していた矢先、何度、電話を掛けても電話に出ず、数年前に倒れて疼くまっていたのを元民生員さんが発見して、救急車を呼んで下さったことが脳裏を過ぎった。
去年の夏ぐらいから、声の調子も良くなく、電話する度に寝ていることも多く、近所の人にメールをして様子を聞いたり、応答がない夜には、倒れているかもと思い、ご足労頂いた後に、11月11日に誤嚥肺炎で自力で自ら近所の人に電話をしたが、留守だった様子でケアーテイカーさんに連絡をして、来て貰って、救急車で病院に運ばれたようだった。
その後、絶縁状態の兄に病院に行って貰うことをお願いしたが、拒否されたりした。
ケアテイカーさんによると、それほど大事に至らないというニュアンスであったが、無理を言って兄に父の容態を病院に見に言って貰ったときに「死相が出ているから、帰って来たほうが良いのではないのか?」という話になった。
主人と相談し、意識があるうちに会って様子を見て来たらと提案されたので、急遽、チケットを取り、バタバタと日本に帰国した。
機内にいる間に危篤になってしまっていたらと心配になったりしてゆっくり出来ず、朝一番に病院に行けるようにと地元のホテルを取り、その足で病院に向かった。
父に声を掛けたが、私の顔を見ても「知らん!」と言って無視された。
主治医の先生、看護婦さん、病院の相談員さん、ケアテイカーさんを交えての父の状況を何度も話し合い、父に声を再度、掛けたが無視された。
スーツケースを空港から送っていたので、父の家に帰ることにした。
家に帰ってみると、救急車で運ばれたその日の状態だったのか、こんな状態で寝ることも出来ないと思い、夜の7時頃から掃除機を手に取り、掃除をしていたら、ガタガタと縦に家が揺れていた。地震だった。
そうこうしていると隣の方が、「かずこちゃん、帰って来たの?」とお越しになったので、立ち話したりして、もう、父はこの家に帰って来ることがないだろうから、大きな家電の処分をしないと行けないと思いつつ、畳に布団を敷いて寝た。
次の日も朝早くから病院に行き、父に話掛けたが無視されて、「知らん!」と言われた。
知らんと言う意味が分からず、どうしてと思いつつ、痴呆かも知れないと自分に言い聞かせた。
帰国後3日目の日に父が車椅子に座って、景色の良い場所で日向ぼっこをしながら看護学生の男子と会話をしていた。
私が近くに言って話しかけると、また、無視された。
その日は11月中旬だったが、青空で汗が出て来るぐらい暑い日だった。実家から朝、ダウン症の姉が通っている作業所に連絡をいれ、お昼ご飯が済んだぐらいに姉を迎いに行き、父に会わせようと父に「サー子を午後から連れて来るからね。」と告げると、鬼のような顔で「サー子はどこにおるんか?」と聞かれた。
サー子には反応するだと悲しくなった。
ミイラのようにやせ細った父は私を忘れてしまったのか。
タクシーで姉の居る作業所へ行き、ランチが終わった後に決まった習慣があるらしく、タクシーを待たせていたが、お構いなく、しっかりと歯磨きをしていた。
そして、父に姉を会わせ、時間が来たので、姉をタクシーで送って行った。
別件で自宅に帰らなければならなかったので、その日は父に帰ると言って帰った。
次の日に父にあったが、怒った顔をしていた。
私が「お父さん、来たよ。」と言うと。無視されたが、話かけると「お前は誰だ!」と言われ、「カズコだよ。」と告げると「カズコだったら、ワシの保険書を持っているだろう?」と聞かれた。私が「持っているけど?」と言うと、「見せてみろ!」と問われて、カバンから出して見せると「銀行のカードもあるだろう?」と聞かれ、見せると、「カズコか。いつ帰って来た?」と「ごめん、ごめん」と何度も言いながら、握手を求めて来た。
破傷風になっている手で何度も握手をして、「旦那に迷惑かけるな、まさか、帰って来てくれると思っていなかったから、カズコに似た人でワシを騙そうとしているのかと思っていた。」とくぼんだ目を細めながら、ニコニコと話していた。
会えたことが嬉しかったのか、興奮状態で元気な声で数時間話をした。
その日が一番元気でまともな話をしていた。
その後は、喉に痰が詰まったりして、吸引して貰ったり、体調が良くない感じだった。
しかし、体調は悪いが安定した感じだったので、違う病院を紹介して頂いたり、その話合いをしたり、姉の件、葬儀の件、家の大きな家電の処分、兄家族の悩みを聞いたり、毎日、病院通いをしながら、すべての家電を処分したので、寒い時期にコンビニ弁当を寒い古い家に帰って食べながら、知らず知らずに涙が頬に流れていた。
いくら日本語が出来るからと言って、2年ぶりの地元に帰り、病院通い。
寒さと孤独さに負けそうになることもあった。
最新設備の新しい病院から父のような状況の患者さんがいる病院に移動しなければならない為に、転移する病院の先生とお話したり、その先生には「延命治療をしないなら、自宅で看取ったら?」と言われたので、「自宅で看取ります。」と言い、兄、主人、病院の相談員さんに告げると、「止めておいた方がいいですよ。あなたが倒れますよ。」とアドバイスされ、兄も「お前はバカか?お前が死んだらどうするだ!」と言われ、主人にも「無理し過ぎないで、病院で死期を迎えるのが良いよ。」と、主治医も「プロに任せた方が良いのでは?」と言われ、病院と病院の連携が取れてなかったらしく、その後は転移する病院の先生も自宅介護の件は言わなくなりました。ただ、延命治療を希望しないのであれば、「文章で一筆書いて、捺印して下さい。」と言われました。
家に帰る途中に封筒と便箋を買い、いざ、書き始めると何度も、なぜか、「お願いします。」と書いてしまい、お願いしませんと書く機会がないため、やっぱり、お願いした方が良いのかと思う気持ちになりました。
続く
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家族の死と向かい合う

お久しぶりです。
日本のインターネットカフェにて書き込みをしています。
1ヶ月の予定で地元に帰っていましたが、毎日、父に会いに行って私自身の体調も芳しくない状態ですが、もうすこし、日本に滞在することに致しました。
年末年始で本来なら鑑定予約で一杯ですが、2011年〜2012年に掛けて日本に急遽帰って来たのにも意味があるのでしょう。
日本にて最愛の家族との死に向き合うのも、今回で3回目になります。
日本に帰国して毎日、お百度参りのように病院に通っています。
父の様子を見る度に悲しくて涙が出ます。
病院も転移し、大勢の方々に大変お世話になりました。
父の容態が急変する前に、意識があるうちに会えたので、良かったです。
お医者さまには「いつ死ぬか、分からないが・・・。 覚悟はしておいて下さい。」と、言われました。
父も霊界の受け入れ態勢が出来れば、あの世に帰ることでしょう。
最近では眠っている時間の方が多くなりました。
来年、キプロスに帰り、落ち着いたらブログの更新にてお話させて頂きます。
今年は世界各国に変化が訪れました。
日本では大震災にて多くの方々が霊界に還って行かれました。
2011年も大変、お世話になりました。
2012年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様、皆様に繋がる大切な方々に、2012年が良い年になりますように、心よりお祈り致します。
心より、感謝致します。
ありがとうございます。
合掌
カズコ

延命治療をするか否か

こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
パフォスはここ数日ずっ〜と雨が降り続けていました。
しとしとと雨が降ることがないパフォスなので、お洗濯が出来ず、そして、寒い!
今日は久しぶりに雨が降っておらず、お天気なので溜め込んだ洗濯をしております。
先月、ニコシアの友人のお父さまがお亡くなりになり、お葬式に行って参りました。
今月になってすこし元気になった友人家族から「気晴らしにリマソールのホテルにお泊りするから、一緒に数泊しましょう。」とお招きを頂きました。
主人と相談して、1泊でもとっても高級なホテルなので、遠慮したのですが、どうしてもとリクエストを頂いたので、1泊だけすると約束して行きました。
お葬式から2週間ほど経っていたので、彼女自身、すこし落ち着いたようで、一緒に夕日を見ながら、海岸を歩いたり、お酒を飲んだり、フランス料理を食べたり、水着を持参しないかったのですが、スパ施設を覗いたら、入りたくなったので、水着を買い、御曹司君と一緒にダラダラと温泉気分に浸かっていました。
素敵な時間を過ごし、週末に実家の父に連絡を入れたのですが、数回電話をしても父が電話に出ず、心配になったのでご近所の方に様子を見て頂きました。
「いま、お父さん、起きたみたいだから、連絡してあげて」とご近所さんの携帯電話からメールを受け取り、父に電話すると、
「寒いし、しんどいし・・・」という事で、横になっていたようです。
週明けにソーシャル・ワーカーさんにメールを私から入れ、主治医と会う予約は来月の中旬らしいが、早めに予約を変更出来ないのか尋ねたところ、主治医と確認してみるということで、予約を早めて頂いた矢先、胸騒ぎがしたので、眠れず、連絡を入れようと思って起きてメールチェックをしたら、父が緊急入院をしたということで、主治医に連絡を入れて欲しいと言われたので、すぐに連絡を入れましたが、看護婦さんから、「先生の電源が切れているので、明日にして欲しい」と言われ、また、眠れない夜を向かえ、主治医の先生と連絡が取れました。
父の容態の説明がある程度終わった後に「延命治療しますか?」と尋ねられました。
「兄と同意して、延命治療はしないと、決めています。」と答えのですが、なぜか、何回も本当に延命治療をしないのか?と問われ、だんだんと気持ちが延命治療しないといけない感じに思えて来ました。
ただ、父の場合は延命治療を受けたからといって元気になることはないと仰られ、胃ろう手術も難しいであろうと告げられました。
主治医の先生に「父に意識があるなら、父にどうして欲しいか聞いて下さい。」と尋ねて下さい。と言うと、「それは、お父さんにもうすぐ死にますよ。と宣告するのと同じだから、出来かねません。」と仰られ、「でも、本人が延命治療を受けたいと願うのであれば、父の意思を尊重します。父の命ですから・・・。でも、父は口から物が食べれなくなってしまった状態で、さらに、もしも、体力が多少良くなり、胃ろう手術をして、寝たきり状態を喜ぶ人ではないと思います。」と告げると、「判りました」と怒った口調で言われました。
延命治療をしないことが悪い人間のように、感じられました。
5年以上前に2度目の胃がんの手術をする前に、他の病院の先生には「あと、3ヶ月生きれば良いでしょう。」と言われ、病院を移転し、今に至っています。
父も数えで85歳です。
身長が172センチで体重が40キロあるかないかと入院する前に本人確認で言っていました。
9月頃まで、杖をついて歩いたり、畑仕事もしていると聞いていました。
ただ、近所に住んで絶縁状態になっていた兄夫婦が隣の町に引っ越して行ってから、急に元気がなくなり、父と兄の因縁関係はこの世に生を齎したときから始まっているので、父も兄がどうしているのか本当は気になるが、憎愛という何か深い部分で父は生き続けていた感じがします。
兄に父の件を告げると、「会いたくもないし、病院に行って顔を見るのもしたくない。」と言っていましたが、「病院に行って来た。」と言うので、話を聞いた次の日。
何か元気になった様子らしい。
元気といっても、意識が戻ったという意味で、普通の生活ができることは不可能な様子です。
胃がんで胃もないので、胃ろう手術をすることも出来ません。
また、体力が父の場合はないので、手術をしている間に死んでしまう可能性があります。
一昔であれば、自宅で食事が出来なくなったら、ゆっくりと柔らかい物、重湯、お水という感じで、新生児の逆のパターンであの世に帰る準備が出来ていることでしょう。
父の世代は幸せだと思います。
まだ、見取る人もいますから、私が父と同じぐらい生きたとして、家族に見送れることはないでしょう。
死の準備もある程度、自己責任という時代になっているかも知れません。
「平穏死」が善いか、悪いか。と聞かれると、それはその家族が決めれば良いでしょう。
ただ、食べるのが大好きだった父にとっては二度の胃がん手術でどんどん胃が小さくなり、それでも、食べ物の話をするのが好きでした。
戦時中に成長期を迎えたが食べれなかった思い、戦後、闇市で食べ物を購入していた時代、そして、食の飽和状態を向かえ、食べたい物を食べ、一時期は今の体重の2倍あったと若いころの写真を見せられると別人のようです。
身近な人の死を二度、私は経験していますが、やっぱり、死は寂しいものです。
霊界に帰る時期が来ている人を人間が作り出した機械で縛り付けて置くことが父の為になるならば、それはそれで良いと思います。
しかし、本人の意思ではなく、家族の意見が重要視されるのであれば、精一杯生きた父はゆっくりとお迎えが来るまで、自然の流れで寿命を全うして欲しいと願います。
さて、心の準備が出来るまで、「危篤」と言われていない父に会いに行くことを悩みました。
主人とも話し合い、意識があるうちに会い、父に会いに日本に帰り、容態が安定すれば一度、キプロスに帰り、様子を伺い、また、日本に帰ることも出来ると決断しました。
いつも急なため、バタバタと一時帰国を致します。
1ヶ月ほど、音信不通になる可能性があります。
ちょっと、帰ってみないと分かりません。
金曜日までの鑑定予約を入れておりますが、その後はすべての業務をお休みします。
年末年始で本来なら来年のメール鑑定もご予約する予定でしたが、田舎の父宅にはインターネット回線などなく、田舎にはインターネットカフェらしいものもないので、更新出来ません。
クリスマスまでには、どのような状況になっているのか報告できればと思っています。
寒いのが苦手な私には、生まれた故郷と言っても、慣れるまでにすこし時間が掛かりそうです。
突然ですが、よろしくお願い致します。
ありがとうございます。
カズコ
合掌
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感動的なエジプトへのヒーリング旅行

お久しぶりです!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
今回のエジプトへの旅は本当に感動的な毎日となりました。
すでにメルマガで報告しておりますが、エジプシャン・ヒーラーとの出会いに導かれ、ルクソールは遺跡と共存した、素晴らしい波動の場所でした。
5年前に初めて訪れたカイロのピラミィドにも、偉大さを感じましたが、ルクソールは遺跡の宝庫でした。私たちが訪れている短い期間にも新たに3キロメーターにも渡る遺跡が発見されたところを見物することが出来ました。
予定ではリラクゼーションを目的とした旅行でしたが、行くと行きたいところリストが出て来りして、ルクソールから車でアスワンへ足をのばしたりしました。
旅に出る前に、服装チェックのために、1週間の気温を調べたときは、ルクソールの夜は12度ぐらいになるとのことでしたが、全然、エアコンの温度がそれぐらいに設定していたのか、到着した日はエアコンがついた状態のお部屋で毛布が必要になりました。
夜中の2時ぐらいに到着したので、ナイル川も見ないまま眠り込んでしまいましたが、朝の4時ごろから、目の前のモスクから大きなコーランには驚いてしまいました。
私たちが移動した時期はイスラム教徒にとってはキリスト教のクリスマスみたいで、とくに、エジプトのリトル・ヨーロッパと呼ばれているシャーム・エル・シェイキは世界各国、中東のお金持ちが訪れる場所になっているようで、どこも彼処も、人、人でした。
11月から3月ごろまでは一番気候が穏やかだそうで、一番賑わっている時期みたいです。
シャーム・エル・シェイキからイスラエル方向へ向かって300キロぐらいの所にシナイ山、現地ではモーゼ山と呼んでいました。
早めに行って帰って、シャーム・エル・シェイキで泳ぎたいと思っていたので、着いた次の日にシナイ山とセント・カトリーナ教会へ行くことにしました。
シナイ山の朝日を拝む為に、バスがお迎えにホテルに来たのは午後10時30分、繁華街で賑わう場所から遠のいて行き、検問がある度に、盛り上がった道路で最初は起こされていましたが、すこし仮眠をと思いつつ、気づくと砂漠のど真ん中でトイレ休憩、32度ほどあった温度が10度ぐらいに下がっていました。
再び、シナイ山に向かってバスを走らせ、2時間ほどして、山の麓から頂上を目指して歩くように、ツアーガイドの人に指示されました。そのツアーガイドの人は、現地の人がいるので、「明日の朝、セント・カトリーナー教会に8時30分に会いましょう!」と言い放ってどこかに去って行きました。
急に寒さが増したように感じるので、時間を見ると2時半。
懐中電灯をペアに1本渡されました。
片道8キロメートルらしいのですが、何も見えません。
見えるのは、星、星の夜空と半月だけでした。
しかし、驚いたことに懐中電灯の灯りが無数の蛍のように、光っていました。
私は8キロを4時間以内に登る体力がなさそうだったので、ツアーの人達とは別行動で旦那と一緒にラクダで頂上付近まで行くことにしました。
エジプトはどこでも値段交渉から始まるので、面倒ですが、お財布の中と相談して、交渉成立しました。
私が乗ったラクダは単独行動できるようでした。夜だったので怖くなかったでしょうが、ラクダは道の真ん中を歩くのが好きでないようで、端ばかり歩いていました。
途中何度も、急に早歩きし始めたり、他のラクダの後ろになると、ピタリと止まってしまったり、掛け声をかけないと歩いてくれません。
ラクダの駐車場みたいなところに到着しました。
そこから、「750の階段を登って行ってね!」と言われましたが、階段というより、大きさの異なる岩、岩でした。
高さが50センチほどのステップもあったり、風邪気味だった私は飴を舐めながら、胸が痛く感じたり、喉が痛かったりしながら、ぜぃー、ぜぃーしながら、ホテルでゴロゴロしておけば良かったかなと脳裏によぎりましたが、ここまで来たなら、後、もう少しと休みながら、へとへとしながら、登っていると、他の人達も岩にもたれながら、「もうすこしだ!」と言いながら、登っていました。
旦那に硬く握られた手だけを頼りに、今、どの辺りなのかも検討がつかない状態でした。
どこが頂上なんだと思いつつ、人が集まっているので、ここだ!と分かりました。
朝日が昇るまで、30分ほどありました。
周りは人、人、色んな語源が飛び交っていました。
感動的な朝日が昇って来ました。
その後、2時間ほど掛けて、セント・カトリーナ教会まで、歩いて降りて行きましたが、3日間ほど筋肉痛でした。
登山家でもない私が2700メートル級の山、岩山へ登るには辛かったです。
でも、あの光景は感動的でした。
近日中には、写真を公開したいと思っております。
シナイ山で撮影した写真には沢山のオーブが写っていました。
それだけ磁気が強い場所だったのでしょう。
ラクダに乗りながら、流れ星を見たり、半月だった月が満月になって、頂上辺りでは明るくなっていたことに驚きました。あれだけの星の数を見たのも人生の中で初めてで興奮してしまいました。
エジプト行きにして良かったです。
ありがとうございます。

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故郷

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こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
実家には10月の連休ごろまで滞在する予定でいましたが、私の体力にも限界を感じたので、日程を変更して早めにキプロスに帰って来ました。
身体はガリガリな父でしたが、耳や目が悪くなっている為、さらに頑固な上に、注文が多く、買い物リストも細かく、さらには、重たい布団が欲しいなどと意味不明なことを言い始める始末でした。
2年間という歳月は父をさらに頑固にさせ、猜疑心も強くなったように思えます。
ご近所の方で毎朝、父のところへ行き、父の作ったご飯を食べる女性の方は何か持って行くとお金を父があげるので、自分のところでいらなくなった蛍光灯を新品だと言って、父のところに持って言って、父が「これは新品ではない!」というと、「おじさん、これ昨日買ったばかりだから新品だよ!」と言って、取り付けてくれて、父が「電気が点かない?」と訊ねると、「ちょっと、接触が悪いみたいだけだから。」と言っていたので、私が製造月日を見ると、なんと10年前の物で「これ!10年前のものだよ!」というと、「どうして分かるのか。」というので、「ここに年月日が表示してあるんだよ!」と教えると、裏切られたことに対してかなり嫌な気持ちになったようでした。
さらに財布の件なども「財布を買って来てあげたから、」と言って2000円で買って来たからと言うので、「領収書があれば2000円あげるから」と父がいうと、「領収書はなくしたから、あそこのデパートで買ったから、2000円」と言い、あげたようでした。
父から財布が欲しいというので、買って行きましたが、2000円の新品の財布に子供が縫ったような形跡があり、さらに黒い財布でしたが、グレーのガムテープが貼ってあったので、父に「自分でこんなことをしたの?」と聞くと、そんなことはしないというので、家にあったものを父に買って来たと言えば、いくらかお金が貰えると思ったようです。
彼女が働いている会社も仕事があまりないので、定年までに会社が持つかどうか分からないから、ヘルパーになろうと思うと言っていました。
父は耳が難聴なので、父の場合は思ったことや伝言はすべてメモ帳や雑記帳を作り、細かいことまでも書いてありました。
父がお金をあげなければ、きっと寄り付きはしないでしょう。
私が居る間は、あまり姿を見ませんでした。
今までは笑うことが多かった父が2年間でさらに悪い方向へ変貌したのにはショックでした。
私が座っただけで、「お前は同じことを言う」「お前はやくざみたいな人間だ!」とか、急に怒り始めたりして、家にいると、誰かから電話が掛かって来る上に、突然の来客もあり、その度に「お〜い、電話!」「誰か来た!」とか、ゆっくり出来ない上に、「お前に帰って来いなど頼んだ覚えはない!」などと言われて、悲しい誕生日を迎えました。
いくら親子と言え、優しい言葉を掛けて貰うこともなく、姪っ子が子宮癌で手術をして入院していたので、お見舞いに行ったり、退院したのでお見舞いに行ったりして、さらには、ごみ屋敷になっている兄のところに姪っ子が退院したら帰って来るけど、子守とお金の援助とさらには、掃除を手伝いに来いと命令されたときには、お金の援助をした私が掃除と子守もする為にキプロスから帰ったのではないので、どちらの家に居ても、地獄界のように感じました。
政権が変わったときに日本にいましたが、ミカさんご夫婦からご丁寧にとっても美味しいチーズケーキを誕生日に合わせて届けて頂き、ありがとうございます。
長い間、ネット環境がなかった為に音信不通になってしまい、ご迷惑をお掛け致しました。
久しぶりの日本の感想を色々な人に聞かれました。
印象としては、「昭和」のイメージ。
通信機や電気関係、さらにエコカーは発展しているように見えましたが、戦後の日本のエネルギーを感じました。
政治に関しても、新総理はアメリカからの自立と主張していますが、欧州とこれから仲良くするとなると、EU加盟国自体がひとつの国ですから、外交をどのようにして行くのか。貧富の差の多いアジアと友好関係に持って行こうとするのであれば、相手国もある程度経済的に余裕がないのであれば、援助ばかりで借金が減るのでしょうか。
ダム建設中止の案もありますが、最初にあんな莫大なお金を掛けてダム建設しようとした事態が問題だったのではないでしょうか。
建設業界も悪化状態らしい様子ですね。
実家に滞在中に不思議な女性や家族を見かけました。
シルバーカーのような乳母車に寝袋やどこかで拾った得体の知れない物を押している20代から30代の女性は地元の人ではないでしょう。
住む家もないかも知れないホームレスさんかも知れないと思えました。
福祉に力を入れて行くならば、頼ることが出来ない人には仮説住宅さらに生活保護も出してあげた方が良いと思えます。
家族と言うだけで、身内が出来ないこともあると思いますので、若い人が放浪しなくて良い、明るい国になって欲しいと願います。
参議員選挙もありますから、どのようになって行くのか。
今後、国民の声も反映して欲しいと願います。
家族の事では疲れましたが、一人ぶらぶらと瀬戸内の幸を食べ歩きました。
温泉にも一人で行き、紅葉に変わり始める秋の景色を見ながら、露天風呂に浸かりました。
肉体的、精神的にも余裕があれば、東京へも足を運んで見たかったので、ちょっと残念でした。
ひとつ楽しかった出来事は父に頼まれて行ったスーパーで後ろから私を呼ぶ声があったので、小中学生の同級生と立ち話を5分ぐらいして、8月に40人ぐらい集まったという話を聞いて、そうだったの?と、言って「またね!」と言って別れて、次の日に人数は少ないけど、参加出来る?と言うので、「もちろん、参加したいと思うけど・・・、参加者の人たちは誰?」と訊ねると、かなり虐められたメンバーでしたが、参加することにしました。
中学校以来会っていない人達も多く、お顔を見ても「???」でした。名前を聞いて、さらに仰天でした。変わっていない人もいれば、オヤジになっている人もいるけど、不思議なことに声は同じ。3次会まで行き、お腹が捩れるほど笑いました。
今回の日本は涙あり、笑いありでした。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。