カテゴリー別アーカイブ: プライベート

陰陽の選択によって、運勢が好転する、波動を高め感謝と共に生きて行く~2018年に向けて、国際占い師カズコよりメッセージ

canstockphoto11650459

2018年、時代はどのように変化して行くのか?

 

未来はどうなるのかをチャネリングしたところ、2枚の絵をギリシャの神・ゼウスに見せて頂きました。

 

一枚の絵は、「手相と土星」のシンボルでした。

 

「手相」は、数ある占いの中でも、双子で同じ生年月日であっても、異なる手相になりますし、また、当たる確率が高いことで知られています。

 

手のひらに現れる線は、同じ1本の線でも多くの意味があります。

 

性格、人生、金運、健康、恋愛、結婚、適職等が分かります。

 

手相は、その人の過去や現状を示すと同時に未来をも映し出してくれています。

 

運勢が変われば、手相も変わります。

 

気になる線が出ていても、それは警告であり、必ずそうなるということではありません。

 

手相の役割は、手のひらに隠された才能や弱点などを知り、どこをどう伸ばせば良いのか、どこを回避すれば良いのかを教えてくれています。

canstockphoto6433687

 

その手相の絵と、「土星」のサインの意味は、また、色は青でした。

 

冬の青い色で、藍色に近い色です。

 

青い色は、大天使ミカエルを司っています。

 

チャクラで青い場所にあたるところは、第5チャクラですが、2018年は、藍色に近いので、第6チャクラを示している様子です。

 

第6チャクラは、第三の目として知られています。眉の間から出て外側に広がり、額の上から鼻の先まで、頭の上部全体を司っています。

 

この第6チャクラは、人生を正確に見る能力を重点的に取り扱います。分析し、論じ、知覚し、理解し、見分け、夢に見て、想像し、そして、心に思い浮かぶ能力が含まれています。

 

この第6チャクラがバランスを保っていると、内面的なパーソナル・ビジョンのセンターとして、活動しています。

 

つまり、「見る、理解する、想像する」ことが、出来るのです。

 

五感からの情報の経験を超えたものからメッセージや閃きをキャッチするのが、第六感です。

 

本来、私たちには、このような能力が備わっていますが、科学の発展によってそれを使う機会が減りました。

 

便利になり過ぎて、備わっている能力よりも、インターネットを通じて、簡単に検索出来たり、他人の思考をそのまま自分の思考だと勘違いしてしまう人も増えています。

 

それが、「土星」を意味している様子です。

 

理論的に説明できないものは信じないという姿勢を持っていると、折角の能力が目覚めません。

 

第6チャクラの活性化が低下していると、頭痛、睡眠障害、記憶力の減退、物忘れが多くなります。

chakra6

 

第六感で閃きを宇宙から受け取ることで、創造的才能が活性化します。

 

人生で出会う人や出来事は、すべて必然的です。偶然はありません。

 

第6チャクラの働きが活性化することで、幸運を呼び込んだり、大きな発見のきっかけを思いついたりなど、思いがけない良い事が起こりえます。

 

内面が純粋であればあるほど、幸運を呼び寄せることが出来ます。

 

「土星 Saturn 」は、制限・束縛・困難・不運を司る惑星です。努力と忍耐を必要とする重い責任や試練をもたらす惑星であるため、暗く重く陰気な凶星として嫌われていますが、必ずしもそうとばかりは言えません。

 

現世を生き抜く経験的知恵は土星からの贈り物ですし、人間は幸福よりも苦労によって鍛えられ、成長することが出来ます。

今は苦しい状況にあっても、素直に、真面目に、正しい道を進んで行くことで、必ず、自分自身の使命を全うすることが出来るでしょう。

 

表面的な人間関係で自分の意思を隠してまで付き合うよりも、世の中の美しい面を探して下さい。

 

他人やメディアなどによって自分の心を同じ「ものさし」で計る必要はありません。

 

愚痴や文句ばかり言う人とは、出来るだけ距離を置いて下さい。

 

毎回、汚れた波動や低い波動の人から偏った言葉を聞き続けると、知らずして、マイナスのエネルギーに包まれてしまいます。

そうなると、自分自身が夢見ていた幼い頃の生き方から遠く離れて行ってしまいます。

 

時には、「良い人」をやめることです。自分の見栄のための「良い恰好」を続けていると、他人は喜んでもらえるかも知れませんが、宇宙や神様は、そのような小さな欲よりも、世の中を正しく見る事を薦めています。

 

さて、第二番目の絵は、タロットカードの「太陽」でした。

canstockphoto21451403

 

「太陽」の意味は、生命と活力の源泉です。丸い円は完全無欠で、物心両方の充足を表わしています。

 

太陽は、白昼に輝く神性で、色々な姿で象徴されますが、恐ろしい目で表わされることがあります。

 

これは鋭い洞察力を暗示しています。

 

ギリシャ神話の太陽の神様アポロンは、知性の神であるばかりではなく農耕、牧畜、医術、予言、道路、都市の守護、門、文芸の神というように、万能の神として、崇拝されていました。

 

タロットカードによっては異なりますが、その太陽のカードには、大地に座っている2人の子供に、太陽の光がさして、生きる喜びを、強く肯定しているものがあります。

 

太陽の光を受けて、力強く成長していく姿に、永遠の青春を感じさせるものがあるからでしょう。

 

この「青春」という意味では、なぜか、「24」という数字を引いた、1994年頃のあなた自身を思い浮かべ、そのときに、願っていた願い事や夢をもう一度、トライすると、精神的にも肉体的にも、若返ることができるかも知れません。

 

今後の日本はどうなることでしょうか?

 

東京オリンピックが開催される年までは、東京は景気が良い様子です。

 

2018年は、さらに、良くなることが期待できます。

 

もう、数年前から人気ですが、「昭和に流行った物」がブームになることでしょう。

 

また、子宝に恵まれる人も増えそうです。

canstockphoto9337759

 

しかし、学校教育で正しい行いをしなければならない先生と呼ばれる人が、親からのプレッシャーで、子供を脅かしたり、洗脳したりしている人がメディアを騒がせるかも知れません。

 

シングルマザーや貧困家族にとっては、理解して貰えず、預けるところがないため、弱者である子供たちが、犠牲となるかも知れません。

 

残念なことですが、貧富の差はさらに広がり、本当に苦しんで生活に困る人も増えることになります。そのため、空き巣や万引きが増えてしまうことになるでしょう。

 

動機は何であれ、ごみ出し程度の短時間の外出でも、家を空けるときにはしっかり鍵をかけるようにして下さい。

 

また、空き巣が家に入って取る物がなかったときの腹いせで、ガス栓を開いて、外に出たりする嫌がらせもあります。

 

さらに、ごみ置き場に、ガソリンを撒いたりして、嫌がらせをする人もいます。

 

気をつけていれば、防げることも出来ることもできますから、しっかりと管理して下さい。

 

そして、子供や弱者を利用した、奉仕団体が増えて行く可能性があります。

 

表向きは親切な振りをして、裏では悪知恵を働かせている低い波動で覆われた人達が、ボランティア活動という名で、私利私欲のために、名声や金儲けに走る人も増えることでしょう。

悪い事は人達は、時期が来れば、神様からの制裁があります。

 

2018年も水の事故が多いでしょう。長雨や局地的な豪雨、ゲリラ豪雨といった、雨が多く降ることが予想されます。

 

大きな台風も2017年に被害があった場所を再度、上陸する可能性があるので、被害が心配です。

 

天気予報をマメにチェックし、自分の場所は安全と邁進せず、直ぐに移動できるように、救命道具等も用意して置くことです。

自然災害が起きた時のためにも、防災用品を備えて置きましょう。

 

悪いことばかりを綴りましたが、環境問題についての研究や、豊かな自然を取り戻す計画も進んでいます。

 

また、最後に子供たちの活躍が世界貢献に繋がる団体も登場しそうです。

 

色々な出来事が2018年も訪れることでしょうが、本当の意味であなた自身の魂の向上になるのは、あなた自身の「生き方」です。

 

油断することなく、投げやりになることなく、感謝しながら、ゆっくり波動を高めて生きることで、災難は遠のいて行くことになります。

 

最後に、人はどんなに苦しい中にあっても、他者を助けられるだけの力を持って生まれて来ています。

 

そして、誰かの役に立てたという体験は、決して失われることはありません。

 

日本人として生まれたことに、誇りを持ち、生きて行きましょう。

 

2018年が、あなたにとって幸多き年になりますようにお祈り致します。

 

ありがとうございます。

kaz-lp-mail-2018

 

 

詳細サイト:

 

http://uranaikazuko.main.jp/2018mail-unsei/

 

こちらのメールフォームより、お申込み下さい。

 

PC・スマホ共用フォーム

 

https://ws.formzu.net/fgen/S55632420/

 

スマホ専用フォーム

 

https://ws.formzu.net/sfgen/S55632420/

 

携帯電話用フォーム

 

https://ws.formzu.net/mfgen/S55632420/

 

 

 

 

広告

いつ行っても楽しめるギリシャ旅行記

geece33-1 (15)

12年振りにギリシャのロードス島に行くことになりました。

 

以前行ったときは、ドイツ人観光客が目立ちましたが、ここ最近は、イギリス人に人気の観光地らしいです。

 

ギリシャで4番目に大きな島のロードス島ですが、キプロスからは、10月の初旬まで直行便が飛んでいたのですが、姪っ子の結婚式は10月14日だったので、キプロスのラルナカから、アテネ経由でロードス島に行きました。

 

パフォスを夜中の1時に出発し、アテネ経由で1時間待ち、ロードス島に到着したのは、午前10時頃でした。

 

ホテルに着いた時間が早かったので、まだ、お部屋の掃除がされていないということで、荷物をフロントに預けていたら、マイケルの義理の弟の親戚たちがエレベターから、ぞろぞろと、降りて来ました。2004年のオリンピックのときに、クレタ島に行き、そこで、一緒にランチを取った親戚たちで、十人ぐらいの人達と挨拶をして、眠気覚ましに、旧市街に行く予定で歩き始めました。

 

マイケルも私も何もリサーチせずの今回の旅行でしたので、ホテルを出て、ビーチを歩いていると、天使の銅像を見つけ、さらに、正教会を見つけました。
geece33-1 (16)

 

お昼時だったので、ランチを取ることにしました。

 

ヘブライ語の文字があったレストランでギリシャ料理を取ることにしました。

 

なぜか、どこに行っても、ユダヤ関係の場所に引き込まれてしまうのか、地図さえないのにと思いつつ、後で、話に聞くところ、1557年に建設されたカハル・シャローム はギリシャ最古のシナゴーグであり、ユダヤ人たちの活動のピークだったそうで、1920年代には、ロードス島の街の3分の1ぐらいがユダヤ人だったらしいそうです。1940年代には、さまざまな民族的背景を持つ2000人ほどのユダヤ人が住んでいた様子ですが、ドイツによるホロコーストによってそのほとんどが移送されたそうです。第二次世界大戦後、カハル・シャロームは海外の支援者の手によって再建されたが、ロードス島に普段暮らすユダヤ人は少ないため、戦前のような宗教行事は行っていない様子です。

 

地元のビールを飲みながら、猫と戯れていたら、時間があっと言う間に過ぎて行きました。

 

義理の弟から連絡が入り、連絡せずにホテルにすでに到着していたので、驚いていました。

 

次の日に結婚式を控えているので、挨拶に来るというのですが、「無理しないで下さい。」と、言っても、最終的に、ニコシアからの甥っ子がテッサロニキ経由で空港に迎えに行って、ホテルに送って来たときに、5分ほど話すことになりました。

 

甥が、お腹が空いたということで、同じ道を通り、またまた、ギリシャ料理とビールを飲むことになりました。

 

お腹一杯になり、ホテルに帰る途中に、エバンゲリスモス正教会でコンサートが行われていました。

 

終わりぐらいだった様子でしたが、ブックマークとパンフレットを貰いました。

 

そのパンフレットのキリスト、聖母マリアのイコンは見たことがありました。

geece33-1 (5)

 

そこには、フェオファン・グレク(Theophanes the Greek 1340年 – 1410年, ロシア語: Феофан Грек, ギリシャ語: Θεοφάνης)は、ビザンティン(東ローマ帝国)からロシアに移り住んだギリシャ人で、ロシアにおいて最も偉大なイコン画家の一人であり、アンドレイ・ルブリョフの師としても知られていると書かれていました。

 

ぶらぶらと歩いて帰り、体を休めることにしました。

 

朝、起きて、朝食を取りに行くと、ニコシアからの姪っ子と義理の姉たちとレストランで会いました。

 

彼女たちは私たちよりも、アテネで4時間待ちの飛行機に乗って来たそうでしたが、あまり疲れている様子もなく、「11時頃に私の部屋に来てね。」と、言われて、髪の毛をアップして貰うのに、美容師さんがホテルに来るので、順番が来たら隣の部屋に行くという感じでした。

 

夜は寒い感じがしたので、ワンピースにするか、ロングドレスにするか迷い、ワンピースにしました。

geece33-1 (8)

 

午後の3時頃に、花嫁と花婿に洋服を着せるというキプロス式の伝統で家から教会に行くことが花嫁の希望だったので、ホテルから、花嫁の新居に車で移動、最初はバスで移動するということでしたが、バスの手配が何かあったのか、義理の弟から電話が来て、「3時半にXXXさんが迎えに行くからね。」と、ギリシャ語で言われて、理解していたが、マイケルがシャワーを浴びているから、掛け直すと言って、電話を切りました。

 

その後、3時半になり、アテネから来た親戚?の車で、花嫁の新居に行きました。

 

まだ、メイク中で、着付けをして行く段階までではなく、何だかんだと、2時間ほど経って、花婿の着付けが始まりました。上に行ったり、下に行ったりしていて既に疲れていました。

 

3人の音楽家が音楽を弾き始めて、花婿に着付けをして行く光景は始めて見たので、楽しかったです。

 

花嫁の部屋にも音楽家たちが、キプロス伝統の結婚式の音楽が流れたので、マイケルは遠慮していましたが、祝福するのに、紐を三回腰の辺りに回して、両頬にキスして、他の人達も同じようにしていました。

 

教会に行く時間になっても、花嫁が下に降りて来ず、すでに、大幅に遅れていました。

 

そこから、車移動で、「どこの教会?」と、聞くと、「エバンゲリスモス教会だ」と言うので、一緒に来た人達の車に乗せて貰って移動しました。

 

教会の外には凄い観光客で一杯、私とマイケルは、観光客と同じように待っていたら、義理の弟に教会の中に入るように指示されて、甥っ子たちは最初の列の椅子に座っていましたが、私たちは外で観光客のように待っていたので、他の招待客で一杯だったので、真ん中の席に座ることにしました。

 

ギリシャ式の結婚式が始まりました。

 

最後に、2つの大きな輪っかを頭に乗っけて、テーブルを3回周り、祝福の言葉を頂きます。

 

またまた、私たちは一番最後に入り、一番最後に出るという感じでした。

geece33-1 (7)

 

他の人達は、祝福のお菓子を貰うのに、早く出ていたそうです。

 

義理の姉はキプロスからご祝儀を預かって来た人達用に、凄い、これから、売りに行くのかというほどの量を大きな袋だらけでした。

 

花嫁たちが、教会から出て来て、私たちはまたまた、ゆっくりしていたら、今度は、教会から40キロ移動のホテルへ移動することになりました。

 

もう、この時点で、夜の9時頃でした。

 

花嫁、花婿が到着したのが、午後10時頃だったと思います。

 

この時間からの食事は辛いです。

 

コース料理で、最初の前菜と次のギリシャ料理を食べた後は、もう、無理でした。

 

ギリシャワインを注いでくれるので、ごくごく飲んでいると、巨漢のギリシャ僧侶が、マイクを握り、キプロスのお祝いの歌を歌い始めました。

geece33-1 (11)

 

この僧侶の方とは、どこかで、会った気がするのですが、キプロスに帰って、姪っ子から電話があり、話によると、サプライズだったらしいです。

 

歌った後に、直ぐに、出て行こうとしたのを私は呼び止めて、写真を撮って貰いました。

 

姪っ子曰く、誰とも写真を撮らなかったらしく、私だけの写真のみだったらしいです。

 

その後は、もう、踊る、飲む。が、続きました。

 

義理の弟、コスタがテーブル席に遣って来て、私にワインを注いで貰い、一機飲みをすることになりました。マイケルには止められましたが、まぁ、お祝いの席だったので、飲みました。2杯続けて飲んだら、姪っ子も遣りたかったのか、3杯の一機飲みは、人生で初めてでした。その後、知らない人達からも誘われて、一緒に踊ることになり、もう、シンデレラタイムを過ぎていたので、眠りたいと願い、隣の席の人達も同じホテルに帰るので、1時半頃に、まだまだ、朝方まで続いて行くパーティ会場を後にしました。

 

次の日、朝食を取っている姪っ子に聞くと、彼女たちは2時半のバスでホテルに帰り、6時頃まで、続いたらしく、特に、3時ぐらいからが盛大だったらしいです。

 

ニコシアから来ていた姪っ子たちは、月曜日から仕事があるので、今回は、ほぼ、結婚式だけのために、ロードス島だけでした。

 

私たちは、13年振りのアテネも行く予定にしていました。

 

アテネも、マイケルに「どこのホテルに泊まるの?」と、聞かれ、「どこだったかな?」と、アテネに到着して、「この住所だけど、タクシーにする?それとも、メトロ?」と、聞くという、のんびりモードでした。

 

以前は、誰かが迎えて来てくれた記憶がありました。

 

義理の妹の家に泊った記憶がありました。

 

多分、花嫁の姪っ子が、迎えに来た覚えがあります。

geece33-1 (22)

 

今回は、ロードス島のホテルは姪っ子が予約を入れてくれていたのですが、アテネのホテルは、シンダグマ広場から近いところに自分で予約を入れたのですが、タクシーで横付けは出来ないらしいホテルということだったので、メトロにしました。

 

スーツケースを持ってうろうろして、数分後、「この通りだよね。」と、言って、ローレックスの時計屋さんのガードマンにマイケルが道を尋ねると、「ここに行きたいの?」と、聞かれ、「ここはとっても、とっても、遠いよ。」と、言われて、「どれぐらい遠いの?」と聞き返すと、指で示されたところは目の前でした。

 

スーツケースを置いて、シンダグマ広場に行きました。

 

動いては行けない、ガードの人達。

 

以前は写真を隣で取れましたが、最近はダメみたいでした。

 

その後、アクロポリスまで、歩いて行き、午後6時までに外に出ないといけないらしかったので、その反対の場所の大理石の丘みたいなところに登りました。

 

ツルツルした大理石をビーチサンダルで歩いている人を見ると、見ている方が怖くなりました。

 

帰りに、日本食を食べ、お風呂に入りました。

 

アテネも日中は29度で、ほぼ夏の気温、ちらほらとジャケットを着ている人もいますが、かなり、暑かったです。

 

次の日も、歩いて、アクロポリスまで行きました。

 

行くと、長蛇の列でした。

 

待っている間も、日差しが暑すぎました。

 

13年前に行ったときの入場料は10ユーロぐらいだったと思います。

 

今回は、20ユーロでした。さらに、修理中で、近くで写真は無理でした。

 

それでも、多くの観光客で埋め尽くされていました。

 

頂上から見る景色は格別でした。

geece33-1 (20)

 

パルテノン神殿は、古代ギリシャ時代にアテナイのアクロポリスの上に建設された、アテナイの守護神であるギリシャ神話の女神アテーナーを祀る神殿とされ、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工、装飾等は紀元前431年まで行われたそうです。パルテノン神殿は古代ギリシャ建築を現代に伝える最も重要なドーリア式建造物の最高峰と見なされているらしく、装飾彫刻もギリシャ美術の傑作と言えるのも頷けます。また、この神殿は世界遺産に認定されています。

 

お天気も良すぎたので、流行りのインスタグラム撮りで、若い人達が大理石の上で、何度も、ジャンプしていました。
geece33-1 (21)

 

その後、滑った人がいたらしく、働いている人に痛み止めの薬を塗って貰っていました。

 

どこのコーヒーショップも人で溢れていました。

 

値段も他のヨーロッパと同じぐらいですから、物価が安いということもなく、また、イメージ的にはギリシャ人は働かないということもなく、話によると、拘束される時間が長い上に、給料は安い感じです。12時間労働は当たりまえですが、給料は安いそうです。

 

ギリシャ人はそれでも陽気な人が多く、ギリシャ語を少し話すと、嬉しいらしいです。
geece33-1 (28)

 

水曜日に、マイケルのフィルムカメラの調子が悪いので、ホテルから歩いて、7分ぐらいのところにある、ライカのショップに行きました。

 

水曜日はお店が1時頃に閉まることをすっかり忘れていて、反対側の道に渡り、ふらっと見ていると、タロットリーディングをするお店らしいのを発見しました。

 

閉まっていたので、次の日に来て、英語で占って貰えるならと思い、次の日に、ライカのショップに行くと、修理するところを教えて貰い、その前に、タロットリーディングして貰えるか、その場所に行くと、アシスタントの人が出て来て、「ここで、待っていて、次ね。」と、言われて、私は待っていました。

 

マイケルはうろうろして来るからというので、待っていたら、中に入るように言われ、マイケルに電話して、「これから、中に入るからね。」と言って、入りました。

 

ニューエイジ系の物を売っている様子はなく、リーディングが主みたいでした。

 

英語で会話が出来るので、タロットリーディングをお願いしました。

 

コーヒーリーディングも出来ると言われましたが、タロットの方が良いらしいと可愛いアシスタントの方に言われました。話によると、予約制だけど、特別に途中割り込んで、リーディングして貰いました。待っている人には恐縮でした。

 

最近は、2011年にロンドンでSAGBのアランさんとのシッティングが最後でした。

 

人生で一番凄いと思った霊能者はSAGBのテリーさんで、いつ行っても、会えることなく、今に至っています。

 

今回のギリシャ人のタロットリーダーの方は、タロットを沢山使って、色々と見て下さったのですが、とても、良い事ばかり言って下さいました。

greece-reading

 

逆に、何度も、良い事ばかり言われると、本当?と思ってしまうほどでした。

 

良い事ばかり言われると、怠け癖のある私にとっては、未来にそんなに良い事があるなら、努力を怠るので、注意することも言って欲しかったです。

 

また、「あなたは気づいていないけど、あなたは、とてもモテるは、ご主人がいても、他にも男性があなたを慕っているわよ。」と言われも、全然、嬉しくはなかったです。

 

兎に角、未来は素晴らしいらしいそうです。

 

今回のギリシャの旅は、良く笑いましたし、さらに、踊る、食べるで、体重が3キロも増加しました。

 

ありがとうございます。

 

お別れの日まで  帰国

振り返ってみると、2011年3月11日は東日本の大震災、さらに、キプロスも7月11日に海兵隊の倉庫が爆発した為に、1ヶ月半も一日平均4時間ほどの突然停電が続き、それでなくても、8月のキプロスは砂漠のように暑く、猛暑が続き、11月になっても暑い日が続いていた。
週に2回ほど国際電話で父と話す習慣があった。
去年の年明け頃から、喉の調子が芳しくないと病院に通っていた。
悪性の胃がんだと診断され、手術をしてから5年以上経って、私が言っても、他の人が老人ホームに入るように言っても、首をたてに振ることなく、頑なに拒み続けていた。
支援1から支援2にして貰い、通いのヘルパーさんが週に何回も来ると、気兼ねするからと言っては、私にあれしてくれ、これしてくれと依頼する度に、「時差があるから、明日になるからね。」と言うと、「なんで、今日中に出来ないだ。」と腹を立て、私と度々、電話で喧嘩になったりした。
昭和一桁の父世代は何でも自分でしなければ気が済まない性分だったうえ、難聴者の父には、誰かと共同生活は苦痛に感じたのであろうと思える。
2年に一度、父に会いに帰国していたので、2011年の秋ごろに帰ろうと思いつつ、国難の日本に帰ることを躊躇していた矢先、何度、電話を掛けても電話に出ず、数年前に倒れて疼くまっていたのを元民生員さんが発見して、救急車を呼んで下さったことが脳裏を過ぎった。
去年の夏ぐらいから、声の調子も良くなく、電話する度に寝ていることも多く、近所の人にメールをして様子を聞いたり、応答がない夜には、倒れているかもと思い、ご足労頂いた後に、11月11日に誤嚥肺炎で自力で自ら近所の人に電話をしたが、留守だった様子でケアーテイカーさんに連絡をして、来て貰って、救急車で病院に運ばれたようだった。
その後、絶縁状態の兄に病院に行って貰うことをお願いしたが、拒否されたりした。
ケアテイカーさんによると、それほど大事に至らないというニュアンスであったが、無理を言って兄に父の容態を病院に見に言って貰ったときに「死相が出ているから、帰って来たほうが良いのではないのか?」という話になった。
主人と相談し、意識があるうちに会って様子を見て来たらと提案されたので、急遽、チケットを取り、バタバタと日本に帰国した。
機内にいる間に危篤になってしまっていたらと心配になったりしてゆっくり出来ず、朝一番に病院に行けるようにと地元のホテルを取り、その足で病院に向かった。
父に声を掛けたが、私の顔を見ても「知らん!」と言って無視された。
主治医の先生、看護婦さん、病院の相談員さん、ケアテイカーさんを交えての父の状況を何度も話し合い、父に声を再度、掛けたが無視された。
スーツケースを空港から送っていたので、父の家に帰ることにした。
家に帰ってみると、救急車で運ばれたその日の状態だったのか、こんな状態で寝ることも出来ないと思い、夜の7時頃から掃除機を手に取り、掃除をしていたら、ガタガタと縦に家が揺れていた。地震だった。
そうこうしていると隣の方が、「かずこちゃん、帰って来たの?」とお越しになったので、立ち話したりして、もう、父はこの家に帰って来ることがないだろうから、大きな家電の処分をしないと行けないと思いつつ、畳に布団を敷いて寝た。
次の日も朝早くから病院に行き、父に話掛けたが無視されて、「知らん!」と言われた。
知らんと言う意味が分からず、どうしてと思いつつ、痴呆かも知れないと自分に言い聞かせた。
帰国後3日目の日に父が車椅子に座って、景色の良い場所で日向ぼっこをしながら看護学生の男子と会話をしていた。
私が近くに言って話しかけると、また、無視された。
その日は11月中旬だったが、青空で汗が出て来るぐらい暑い日だった。実家から朝、ダウン症の姉が通っている作業所に連絡をいれ、お昼ご飯が済んだぐらいに姉を迎いに行き、父に会わせようと父に「サー子を午後から連れて来るからね。」と告げると、鬼のような顔で「サー子はどこにおるんか?」と聞かれた。
サー子には反応するだと悲しくなった。
ミイラのようにやせ細った父は私を忘れてしまったのか。
タクシーで姉の居る作業所へ行き、ランチが終わった後に決まった習慣があるらしく、タクシーを待たせていたが、お構いなく、しっかりと歯磨きをしていた。
そして、父に姉を会わせ、時間が来たので、姉をタクシーで送って行った。
別件で自宅に帰らなければならなかったので、その日は父に帰ると言って帰った。
次の日に父にあったが、怒った顔をしていた。
私が「お父さん、来たよ。」と言うと。無視されたが、話かけると「お前は誰だ!」と言われ、「カズコだよ。」と告げると「カズコだったら、ワシの保険書を持っているだろう?」と聞かれた。私が「持っているけど?」と言うと、「見せてみろ!」と問われて、カバンから出して見せると「銀行のカードもあるだろう?」と聞かれ、見せると、「カズコか。いつ帰って来た?」と「ごめん、ごめん」と何度も言いながら、握手を求めて来た。
破傷風になっている手で何度も握手をして、「旦那に迷惑かけるな、まさか、帰って来てくれると思っていなかったから、カズコに似た人でワシを騙そうとしているのかと思っていた。」とくぼんだ目を細めながら、ニコニコと話していた。
会えたことが嬉しかったのか、興奮状態で元気な声で数時間話をした。
その日が一番元気でまともな話をしていた。
その後は、喉に痰が詰まったりして、吸引して貰ったり、体調が良くない感じだった。
しかし、体調は悪いが安定した感じだったので、違う病院を紹介して頂いたり、その話合いをしたり、姉の件、葬儀の件、家の大きな家電の処分、兄家族の悩みを聞いたり、毎日、病院通いをしながら、すべての家電を処分したので、寒い時期にコンビニ弁当を寒い古い家に帰って食べながら、知らず知らずに涙が頬に流れていた。
いくら日本語が出来るからと言って、2年ぶりの地元に帰り、病院通い。
寒さと孤独さに負けそうになることもあった。
最新設備の新しい病院から父のような状況の患者さんがいる病院に移動しなければならない為に、転移する病院の先生とお話したり、その先生には「延命治療をしないなら、自宅で看取ったら?」と言われたので、「自宅で看取ります。」と言い、兄、主人、病院の相談員さんに告げると、「止めておいた方がいいですよ。あなたが倒れますよ。」とアドバイスされ、兄も「お前はバカか?お前が死んだらどうするだ!」と言われ、主人にも「無理し過ぎないで、病院で死期を迎えるのが良いよ。」と、主治医も「プロに任せた方が良いのでは?」と言われ、病院と病院の連携が取れてなかったらしく、その後は転移する病院の先生も自宅介護の件は言わなくなりました。ただ、延命治療を希望しないのであれば、「文章で一筆書いて、捺印して下さい。」と言われました。
家に帰る途中に封筒と便箋を買い、いざ、書き始めると何度も、なぜか、「お願いします。」と書いてしまい、お願いしませんと書く機会がないため、やっぱり、お願いした方が良いのかと思う気持ちになりました。
続く
1300444613_c11-354

家族の死と向かい合う

お久しぶりです。
日本のインターネットカフェにて書き込みをしています。
1ヶ月の予定で地元に帰っていましたが、毎日、父に会いに行って私自身の体調も芳しくない状態ですが、もうすこし、日本に滞在することに致しました。
年末年始で本来なら鑑定予約で一杯ですが、2011年〜2012年に掛けて日本に急遽帰って来たのにも意味があるのでしょう。
日本にて最愛の家族との死に向き合うのも、今回で3回目になります。
日本に帰国して毎日、お百度参りのように病院に通っています。
父の様子を見る度に悲しくて涙が出ます。
病院も転移し、大勢の方々に大変お世話になりました。
父の容態が急変する前に、意識があるうちに会えたので、良かったです。
お医者さまには「いつ死ぬか、分からないが・・・。 覚悟はしておいて下さい。」と、言われました。
父も霊界の受け入れ態勢が出来れば、あの世に帰ることでしょう。
最近では眠っている時間の方が多くなりました。
来年、キプロスに帰り、落ち着いたらブログの更新にてお話させて頂きます。
今年は世界各国に変化が訪れました。
日本では大震災にて多くの方々が霊界に還って行かれました。
2011年も大変、お世話になりました。
2012年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様、皆様に繋がる大切な方々に、2012年が良い年になりますように、心よりお祈り致します。
心より、感謝致します。
ありがとうございます。
合掌
カズコ

延命治療をするか否か

こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
パフォスはここ数日ずっ〜と雨が降り続けていました。
しとしとと雨が降ることがないパフォスなので、お洗濯が出来ず、そして、寒い!
今日は久しぶりに雨が降っておらず、お天気なので溜め込んだ洗濯をしております。
先月、ニコシアの友人のお父さまがお亡くなりになり、お葬式に行って参りました。
今月になってすこし元気になった友人家族から「気晴らしにリマソールのホテルにお泊りするから、一緒に数泊しましょう。」とお招きを頂きました。
主人と相談して、1泊でもとっても高級なホテルなので、遠慮したのですが、どうしてもとリクエストを頂いたので、1泊だけすると約束して行きました。
お葬式から2週間ほど経っていたので、彼女自身、すこし落ち着いたようで、一緒に夕日を見ながら、海岸を歩いたり、お酒を飲んだり、フランス料理を食べたり、水着を持参しないかったのですが、スパ施設を覗いたら、入りたくなったので、水着を買い、御曹司君と一緒にダラダラと温泉気分に浸かっていました。
素敵な時間を過ごし、週末に実家の父に連絡を入れたのですが、数回電話をしても父が電話に出ず、心配になったのでご近所の方に様子を見て頂きました。
「いま、お父さん、起きたみたいだから、連絡してあげて」とご近所さんの携帯電話からメールを受け取り、父に電話すると、
「寒いし、しんどいし・・・」という事で、横になっていたようです。
週明けにソーシャル・ワーカーさんにメールを私から入れ、主治医と会う予約は来月の中旬らしいが、早めに予約を変更出来ないのか尋ねたところ、主治医と確認してみるということで、予約を早めて頂いた矢先、胸騒ぎがしたので、眠れず、連絡を入れようと思って起きてメールチェックをしたら、父が緊急入院をしたということで、主治医に連絡を入れて欲しいと言われたので、すぐに連絡を入れましたが、看護婦さんから、「先生の電源が切れているので、明日にして欲しい」と言われ、また、眠れない夜を向かえ、主治医の先生と連絡が取れました。
父の容態の説明がある程度終わった後に「延命治療しますか?」と尋ねられました。
「兄と同意して、延命治療はしないと、決めています。」と答えのですが、なぜか、何回も本当に延命治療をしないのか?と問われ、だんだんと気持ちが延命治療しないといけない感じに思えて来ました。
ただ、父の場合は延命治療を受けたからといって元気になることはないと仰られ、胃ろう手術も難しいであろうと告げられました。
主治医の先生に「父に意識があるなら、父にどうして欲しいか聞いて下さい。」と尋ねて下さい。と言うと、「それは、お父さんにもうすぐ死にますよ。と宣告するのと同じだから、出来かねません。」と仰られ、「でも、本人が延命治療を受けたいと願うのであれば、父の意思を尊重します。父の命ですから・・・。でも、父は口から物が食べれなくなってしまった状態で、さらに、もしも、体力が多少良くなり、胃ろう手術をして、寝たきり状態を喜ぶ人ではないと思います。」と告げると、「判りました」と怒った口調で言われました。
延命治療をしないことが悪い人間のように、感じられました。
5年以上前に2度目の胃がんの手術をする前に、他の病院の先生には「あと、3ヶ月生きれば良いでしょう。」と言われ、病院を移転し、今に至っています。
父も数えで85歳です。
身長が172センチで体重が40キロあるかないかと入院する前に本人確認で言っていました。
9月頃まで、杖をついて歩いたり、畑仕事もしていると聞いていました。
ただ、近所に住んで絶縁状態になっていた兄夫婦が隣の町に引っ越して行ってから、急に元気がなくなり、父と兄の因縁関係はこの世に生を齎したときから始まっているので、父も兄がどうしているのか本当は気になるが、憎愛という何か深い部分で父は生き続けていた感じがします。
兄に父の件を告げると、「会いたくもないし、病院に行って顔を見るのもしたくない。」と言っていましたが、「病院に行って来た。」と言うので、話を聞いた次の日。
何か元気になった様子らしい。
元気といっても、意識が戻ったという意味で、普通の生活ができることは不可能な様子です。
胃がんで胃もないので、胃ろう手術をすることも出来ません。
また、体力が父の場合はないので、手術をしている間に死んでしまう可能性があります。
一昔であれば、自宅で食事が出来なくなったら、ゆっくりと柔らかい物、重湯、お水という感じで、新生児の逆のパターンであの世に帰る準備が出来ていることでしょう。
父の世代は幸せだと思います。
まだ、見取る人もいますから、私が父と同じぐらい生きたとして、家族に見送れることはないでしょう。
死の準備もある程度、自己責任という時代になっているかも知れません。
「平穏死」が善いか、悪いか。と聞かれると、それはその家族が決めれば良いでしょう。
ただ、食べるのが大好きだった父にとっては二度の胃がん手術でどんどん胃が小さくなり、それでも、食べ物の話をするのが好きでした。
戦時中に成長期を迎えたが食べれなかった思い、戦後、闇市で食べ物を購入していた時代、そして、食の飽和状態を向かえ、食べたい物を食べ、一時期は今の体重の2倍あったと若いころの写真を見せられると別人のようです。
身近な人の死を二度、私は経験していますが、やっぱり、死は寂しいものです。
霊界に帰る時期が来ている人を人間が作り出した機械で縛り付けて置くことが父の為になるならば、それはそれで良いと思います。
しかし、本人の意思ではなく、家族の意見が重要視されるのであれば、精一杯生きた父はゆっくりとお迎えが来るまで、自然の流れで寿命を全うして欲しいと願います。
さて、心の準備が出来るまで、「危篤」と言われていない父に会いに行くことを悩みました。
主人とも話し合い、意識があるうちに会い、父に会いに日本に帰り、容態が安定すれば一度、キプロスに帰り、様子を伺い、また、日本に帰ることも出来ると決断しました。
いつも急なため、バタバタと一時帰国を致します。
1ヶ月ほど、音信不通になる可能性があります。
ちょっと、帰ってみないと分かりません。
金曜日までの鑑定予約を入れておりますが、その後はすべての業務をお休みします。
年末年始で本来なら来年のメール鑑定もご予約する予定でしたが、田舎の父宅にはインターネット回線などなく、田舎にはインターネットカフェらしいものもないので、更新出来ません。
クリスマスまでには、どのような状況になっているのか報告できればと思っています。
寒いのが苦手な私には、生まれた故郷と言っても、慣れるまでにすこし時間が掛かりそうです。
突然ですが、よろしくお願い致します。
ありがとうございます。
カズコ
合掌
1321517704_1186023893l

感動的なエジプトへのヒーリング旅行

お久しぶりです!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
今回のエジプトへの旅は本当に感動的な毎日となりました。
すでにメルマガで報告しておりますが、エジプシャン・ヒーラーとの出会いに導かれ、ルクソールは遺跡と共存した、素晴らしい波動の場所でした。
5年前に初めて訪れたカイロのピラミィドにも、偉大さを感じましたが、ルクソールは遺跡の宝庫でした。私たちが訪れている短い期間にも新たに3キロメーターにも渡る遺跡が発見されたところを見物することが出来ました。
予定ではリラクゼーションを目的とした旅行でしたが、行くと行きたいところリストが出て来りして、ルクソールから車でアスワンへ足をのばしたりしました。
旅に出る前に、服装チェックのために、1週間の気温を調べたときは、ルクソールの夜は12度ぐらいになるとのことでしたが、全然、エアコンの温度がそれぐらいに設定していたのか、到着した日はエアコンがついた状態のお部屋で毛布が必要になりました。
夜中の2時ぐらいに到着したので、ナイル川も見ないまま眠り込んでしまいましたが、朝の4時ごろから、目の前のモスクから大きなコーランには驚いてしまいました。
私たちが移動した時期はイスラム教徒にとってはキリスト教のクリスマスみたいで、とくに、エジプトのリトル・ヨーロッパと呼ばれているシャーム・エル・シェイキは世界各国、中東のお金持ちが訪れる場所になっているようで、どこも彼処も、人、人でした。
11月から3月ごろまでは一番気候が穏やかだそうで、一番賑わっている時期みたいです。
シャーム・エル・シェイキからイスラエル方向へ向かって300キロぐらいの所にシナイ山、現地ではモーゼ山と呼んでいました。
早めに行って帰って、シャーム・エル・シェイキで泳ぎたいと思っていたので、着いた次の日にシナイ山とセント・カトリーナ教会へ行くことにしました。
シナイ山の朝日を拝む為に、バスがお迎えにホテルに来たのは午後10時30分、繁華街で賑わう場所から遠のいて行き、検問がある度に、盛り上がった道路で最初は起こされていましたが、すこし仮眠をと思いつつ、気づくと砂漠のど真ん中でトイレ休憩、32度ほどあった温度が10度ぐらいに下がっていました。
再び、シナイ山に向かってバスを走らせ、2時間ほどして、山の麓から頂上を目指して歩くように、ツアーガイドの人に指示されました。そのツアーガイドの人は、現地の人がいるので、「明日の朝、セント・カトリーナー教会に8時30分に会いましょう!」と言い放ってどこかに去って行きました。
急に寒さが増したように感じるので、時間を見ると2時半。
懐中電灯をペアに1本渡されました。
片道8キロメートルらしいのですが、何も見えません。
見えるのは、星、星の夜空と半月だけでした。
しかし、驚いたことに懐中電灯の灯りが無数の蛍のように、光っていました。
私は8キロを4時間以内に登る体力がなさそうだったので、ツアーの人達とは別行動で旦那と一緒にラクダで頂上付近まで行くことにしました。
エジプトはどこでも値段交渉から始まるので、面倒ですが、お財布の中と相談して、交渉成立しました。
私が乗ったラクダは単独行動できるようでした。夜だったので怖くなかったでしょうが、ラクダは道の真ん中を歩くのが好きでないようで、端ばかり歩いていました。
途中何度も、急に早歩きし始めたり、他のラクダの後ろになると、ピタリと止まってしまったり、掛け声をかけないと歩いてくれません。
ラクダの駐車場みたいなところに到着しました。
そこから、「750の階段を登って行ってね!」と言われましたが、階段というより、大きさの異なる岩、岩でした。
高さが50センチほどのステップもあったり、風邪気味だった私は飴を舐めながら、胸が痛く感じたり、喉が痛かったりしながら、ぜぃー、ぜぃーしながら、ホテルでゴロゴロしておけば良かったかなと脳裏によぎりましたが、ここまで来たなら、後、もう少しと休みながら、へとへとしながら、登っていると、他の人達も岩にもたれながら、「もうすこしだ!」と言いながら、登っていました。
旦那に硬く握られた手だけを頼りに、今、どの辺りなのかも検討がつかない状態でした。
どこが頂上なんだと思いつつ、人が集まっているので、ここだ!と分かりました。
朝日が昇るまで、30分ほどありました。
周りは人、人、色んな語源が飛び交っていました。
感動的な朝日が昇って来ました。
その後、2時間ほど掛けて、セント・カトリーナ教会まで、歩いて降りて行きましたが、3日間ほど筋肉痛でした。
登山家でもない私が2700メートル級の山、岩山へ登るには辛かったです。
でも、あの光景は感動的でした。
近日中には、写真を公開したいと思っております。
シナイ山で撮影した写真には沢山のオーブが写っていました。
それだけ磁気が強い場所だったのでしょう。
ラクダに乗りながら、流れ星を見たり、半月だった月が満月になって、頂上辺りでは明るくなっていたことに驚きました。あれだけの星の数を見たのも人生の中で初めてで興奮してしまいました。
エジプト行きにして良かったです。
ありがとうございます。

1291108430_mozes2
1291108430_mozes

故郷

1254372928_onomichi
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
実家には10月の連休ごろまで滞在する予定でいましたが、私の体力にも限界を感じたので、日程を変更して早めにキプロスに帰って来ました。
身体はガリガリな父でしたが、耳や目が悪くなっている為、さらに頑固な上に、注文が多く、買い物リストも細かく、さらには、重たい布団が欲しいなどと意味不明なことを言い始める始末でした。
2年間という歳月は父をさらに頑固にさせ、猜疑心も強くなったように思えます。
ご近所の方で毎朝、父のところへ行き、父の作ったご飯を食べる女性の方は何か持って行くとお金を父があげるので、自分のところでいらなくなった蛍光灯を新品だと言って、父のところに持って言って、父が「これは新品ではない!」というと、「おじさん、これ昨日買ったばかりだから新品だよ!」と言って、取り付けてくれて、父が「電気が点かない?」と訊ねると、「ちょっと、接触が悪いみたいだけだから。」と言っていたので、私が製造月日を見ると、なんと10年前の物で「これ!10年前のものだよ!」というと、「どうして分かるのか。」というので、「ここに年月日が表示してあるんだよ!」と教えると、裏切られたことに対してかなり嫌な気持ちになったようでした。
さらに財布の件なども「財布を買って来てあげたから、」と言って2000円で買って来たからと言うので、「領収書があれば2000円あげるから」と父がいうと、「領収書はなくしたから、あそこのデパートで買ったから、2000円」と言い、あげたようでした。
父から財布が欲しいというので、買って行きましたが、2000円の新品の財布に子供が縫ったような形跡があり、さらに黒い財布でしたが、グレーのガムテープが貼ってあったので、父に「自分でこんなことをしたの?」と聞くと、そんなことはしないというので、家にあったものを父に買って来たと言えば、いくらかお金が貰えると思ったようです。
彼女が働いている会社も仕事があまりないので、定年までに会社が持つかどうか分からないから、ヘルパーになろうと思うと言っていました。
父は耳が難聴なので、父の場合は思ったことや伝言はすべてメモ帳や雑記帳を作り、細かいことまでも書いてありました。
父がお金をあげなければ、きっと寄り付きはしないでしょう。
私が居る間は、あまり姿を見ませんでした。
今までは笑うことが多かった父が2年間でさらに悪い方向へ変貌したのにはショックでした。
私が座っただけで、「お前は同じことを言う」「お前はやくざみたいな人間だ!」とか、急に怒り始めたりして、家にいると、誰かから電話が掛かって来る上に、突然の来客もあり、その度に「お〜い、電話!」「誰か来た!」とか、ゆっくり出来ない上に、「お前に帰って来いなど頼んだ覚えはない!」などと言われて、悲しい誕生日を迎えました。
いくら親子と言え、優しい言葉を掛けて貰うこともなく、姪っ子が子宮癌で手術をして入院していたので、お見舞いに行ったり、退院したのでお見舞いに行ったりして、さらには、ごみ屋敷になっている兄のところに姪っ子が退院したら帰って来るけど、子守とお金の援助とさらには、掃除を手伝いに来いと命令されたときには、お金の援助をした私が掃除と子守もする為にキプロスから帰ったのではないので、どちらの家に居ても、地獄界のように感じました。
政権が変わったときに日本にいましたが、ミカさんご夫婦からご丁寧にとっても美味しいチーズケーキを誕生日に合わせて届けて頂き、ありがとうございます。
長い間、ネット環境がなかった為に音信不通になってしまい、ご迷惑をお掛け致しました。
久しぶりの日本の感想を色々な人に聞かれました。
印象としては、「昭和」のイメージ。
通信機や電気関係、さらにエコカーは発展しているように見えましたが、戦後の日本のエネルギーを感じました。
政治に関しても、新総理はアメリカからの自立と主張していますが、欧州とこれから仲良くするとなると、EU加盟国自体がひとつの国ですから、外交をどのようにして行くのか。貧富の差の多いアジアと友好関係に持って行こうとするのであれば、相手国もある程度経済的に余裕がないのであれば、援助ばかりで借金が減るのでしょうか。
ダム建設中止の案もありますが、最初にあんな莫大なお金を掛けてダム建設しようとした事態が問題だったのではないでしょうか。
建設業界も悪化状態らしい様子ですね。
実家に滞在中に不思議な女性や家族を見かけました。
シルバーカーのような乳母車に寝袋やどこかで拾った得体の知れない物を押している20代から30代の女性は地元の人ではないでしょう。
住む家もないかも知れないホームレスさんかも知れないと思えました。
福祉に力を入れて行くならば、頼ることが出来ない人には仮説住宅さらに生活保護も出してあげた方が良いと思えます。
家族と言うだけで、身内が出来ないこともあると思いますので、若い人が放浪しなくて良い、明るい国になって欲しいと願います。
参議員選挙もありますから、どのようになって行くのか。
今後、国民の声も反映して欲しいと願います。
家族の事では疲れましたが、一人ぶらぶらと瀬戸内の幸を食べ歩きました。
温泉にも一人で行き、紅葉に変わり始める秋の景色を見ながら、露天風呂に浸かりました。
肉体的、精神的にも余裕があれば、東京へも足を運んで見たかったので、ちょっと残念でした。
ひとつ楽しかった出来事は父に頼まれて行ったスーパーで後ろから私を呼ぶ声があったので、小中学生の同級生と立ち話を5分ぐらいして、8月に40人ぐらい集まったという話を聞いて、そうだったの?と、言って「またね!」と言って別れて、次の日に人数は少ないけど、参加出来る?と言うので、「もちろん、参加したいと思うけど・・・、参加者の人たちは誰?」と訊ねると、かなり虐められたメンバーでしたが、参加することにしました。
中学校以来会っていない人達も多く、お顔を見ても「???」でした。名前を聞いて、さらに仰天でした。変わっていない人もいれば、オヤジになっている人もいるけど、不思議なことに声は同じ。3次会まで行き、お腹が捩れるほど笑いました。
今回の日本は涙あり、笑いありでした。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

カントリーサイドでのドキュメンタリー映画祭

1249289005_CypriotCruciformFigurinesinCyprusMuseum
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
カレンダーのページを捲るのを忘れてしまうほど、暑さと社交疲れで夏ばて気味です。
7月の終わりから4日間連続でパフォスから車で1時間ほどの場所の名前を聞いても覚えることの出来ない田舎で8回目のドキュメンタリー映画祭が行われるというので、ニコシアの友人から電話があった。
数年前にニコシアから行ったことがあるが、平日だった為に長いが出来なかった。
夜行性のキプロス人にはぴったりの暗くなってから野外劇場で小さなスクリーンが見やすいように、古代の劇場ぽっく綺麗になっていた。
その日は私達が住んでいる近所のパン屋さんにパンを取りに行って来て欲しいという友人からの願いがあったので、行くことにした。
パン屋から旦那が出てきて駐車している場所だと遠いからと言いながら、車を移動させて私もびっくりしたのは、1000個以上あるベーグルの2倍の大きいパンを車一杯に詰め込んでいた。
何個が行く途中に美味しくてむしゃむしゃと食べた。
村に着くと、どこもかしこも車と人で一杯でかなり会場から遠い場所に駐車して、パンを運んだ。主催者が誰なのか分からないまま、運んで帰って来たときには、パンは消えていた。
誰が誰だか薄暗いなかで、ほどんどの人が日焼けしているので同じような顔に見えたので、場所だけ確保して座った。
みんな用意万端でクッションを持参している人、映画祭のロゴ入りマークのクッションを持ち歩く人がうろうろしていた。
映画祭の会計を担当している友人は携帯に電話しても出ず、ドキュメンタリー映画が始まったので見ることにした。
その映画の内容は、キプロス人の版画家の生い立ちから今に至るまでのお話だった。
世界中を旅しながら、版画を彫り続けていく姿勢、キプロス戦争のときに難民としてギリシャに移動したときの話、8年前にトルコ人の住んでいた古い家を提供して貰ったので、その田舎はその人がいるということで、この時期になると映画祭を開催することになったらしい。
映画を撮影したかわいらしいフランス人の女の子が挨拶していた。
アニメーション作品もあったので、色々な国から来ている若者がビールを飲みながら、タバコを吸いながら野外でごろごろしながら見ていた。
アニメーション作品はスイス、フランス、ドイツなどからの出展だった。
日本の漫画と違い、立体感がある。
動物がキャラクターになる作品が多い。
ショート映画だから、終わると拍手される音と拍手の長さで興味を抱いた作品か分かる。
夜中の1時までだったが、次の日に義理母の住む山に行く約束をしていたので、途中で帰った。
山から海に向かう車とはすれ違うが、山に行く車はレンタカーを借りているイギリス人ぽっい人たちを見かけた。
山に行く途中、犬も人間もいないのに、羊だけが道を横断していた。その数、1000匹以上、その写真を旦那のカメラで撮影したが、旦那はワイルドフラワーを撮っている間に、手違いで削除したらしい・・・。
山にあと10分ぐらいで到着するだろうというときに、義理母から電話。
12時近くになっても私達の姿が見えないので、心配になったらしい。
いつもなら、ご飯を急いで食べろと言わないカテリーナだが、雲行きが怪しいので、早く食べて貰いたかったようだ。
食べ終わった直後から、雷がゴロゴロといい始めて、激しい雨が降り始めた。
私はすることもないので、毎晩、蚊とは違う得体の分からない虫に刺されて痒みのために眠れないので、昼寝をすることにした。
雨が止んだごろに、起きた。
体が寒くなって来たので、起きた。
キプロスコーヒーを家では作らないで、旦那が作ってくれた。
最近、旦那のブームはコーヒー占いみたいで、飲んだ後、鑑定をしてくれるというので、目覚めの一杯に飲んだ。
カップを逆さにして待っていたら、ヘルパーのベトナム人のウンガさんが行き成り、持って行こうとするので、旦那と私は彼女の腕を掴んで、説明したが、彼女は私が洗うから?と言って、カップをどうしても持って行こうと凄い力で抵抗していた。
カテリーナが説明すると、どうやら理解したみたいで、彼女にも飲んで見て貰ったらと言っていたが、彼女はゲラゲラ笑っていた。
山の果実園で収穫したリンゴやプラムを凄い量を持って帰れと言われても、冷蔵庫に入らないので、下に住んでいるイギリス人のジョン家族にあげた。
そうこうしていると、映画祭の前にジャズがあるから、またまた友人から電話。
行く予定はなかったけど、リンゴも沢山あったので、おすそ分けを兼ねて行く事にした。
やっぱりキプロス人の友人は時間通りに現れず、30分ほどビールを飲みながら待っていたら、新しいベンツで現れた。
主催の会計士を担当しているので、顔が知れているのか、ジャズ演奏が一番見やすい場所に席を取ってくれた。
ビールを飲みながら、ハルミという溶けないチーズと血圧が高くなりそうな昔ながらのオリーブを食べながら、暗くなって来たので、場所移動をした。見る予定がなかったが、キプロスの機織主婦たちのドキュメンタリー映画だったので、とっても興味を惹かれたので、席を確保、映画を撮るのに調査期間7年間、そして、映画を撮っても良いと許可を貰ったので、2年前に撮ったらしい。
機織の主婦たちも平均年齢80歳プラスでしわしわのおばあちゃんたちだった。
12歳ごろから織り始めてから、今まで止めずに織り続けている姿を綴っていた。
驚いたことに、材料のすべてを自分達で調達していた。
コットンの木を栽培して、コットンを摘み、近所の主婦たちで手分けして実とコットンを仕分けし、それを糸にしていたり、絹の糸の為に家で蚕を飼い、餌の好きなブラックベリーの葉っぱの為に、木を育て、ウールも羊を飼って、その羊の毛を海で洗っていた様子を今までやって来ていた。
歩くのがやっとらしいおばあちゃんたち二人でやる作業は二人の呼吸が合っていないと、糸が絡みあってしまうほど複雑な作業らしい。二人して歌を歌いながらぐるぐると10メートルのほどの場所を回っている作業を「テン・ネイル」と呼んでいるらしい。
機織の作業は肩も張るし、夜も遅くまで蝋燭の光で作業を続けてきたおばあちゃんたち、その間に子育てもして、家事もしながら、伝統芸を70年以上続けている姿は本当に感動的だった。
撮影の許可を貰えて撮影してくれた男性にも感謝だったが、もしかして、もうこの世にいないおばあちゃんたちにはもっと感謝だ。
少し離れた村だと、デザインが違うので、公開することでデザインが盗られる可能性あったそうだ。デザインもおばあちゃんたちの体で覚えているから、その場にいないとダメみたいだ。
義理母のカテリーナも体はあまり丈夫ではないが、今でも1ミリほどの糸で編み物をしている。かなり前に教えて貰ったがあまりにも難しいデザインなので断念したことがある。
伝統的な作品を作れる人たちが少しづついなくなっている。
機織のおあばちゃんたちも今では数えられるほどになってしまっている。
映画が終わると凄い喝采で拍手が終わらないほど、長い間続いた。
感動的な映画だった。
主役のおばあちゃんたちは若者に感動を与えた。
芸術とは。職人とは。生きるとは。人間性とは。魂が震え上がる感銘を受ける作品だった。
川の流れるような終わって欲しくない作品だった。
友人に感謝して、次の映画も見たい気はあったが、劇場をあとにした。
席を立つと、立ち見客が大勢いた。
4日間通っている人たちもいる様子だ。
今年は例年よりもお客さんの数が多すぎると言っていた。
野外劇場は無料な上に、最後まで見ている人にはパンやお酒、オードブルが提供される。
土曜日はキプロス産のぶどうで出来たお酒、ズバニヤを振舞った為に、みんな家に帰らずに、3時ごろまで飲みながら、映画の感想を討論していたそうだ。
映画の中に出てくる、おばあちゃんたちは作業を始める前に必ずしていた行為がありました。
十字を切っていました。つねにマリアさまと一緒にお仕事をしていたのでしょうか。
以前にもお話したことがある、ダ・ビンチもキプロスに来たときに、ある作品を見て感動を受けたようです。
長い文章をお読み頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

何度も訪れたくなるマルタ島

1244625621_bg
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
思い切り、日焼けして帰って来ました。
短い旅でしたが、とっても楽しかったです。
まったく、ガイドブックも買わず、前の日にちょっとネットで検索したぐらいでしたが、行って見ると、もう少し長く滞在したくなる国ですね。
人もとっても親切で、何よりも英語が通じる国でしたが、標識などがアルファベットなので読める?ことで安心しました。
キプロスよりも物価が安く、ビールはちょっと苦い味でしたが美味しかった。
キプロスは学校が休みになっているので、家族連れがマルタ島に大移動していました。
ホテル内でも飛び交う言葉がギリシャ語、キプロス語で驚きました。
イスラエルのホテルが狭かった思いがあったので、マルタ島の支払った料金からして期待していませんでしたが、イスラエルの3倍大きいお部屋で居心地も良かったです。
マルタ島はカラフルなバスが有名らしく、かなり古いバスでしたが、気軽に乗れました。
地中海に囲まれたマルタ島にも「青の洞窟=ブルーグロットー」の名で知られる場所にもカラフルなバスで行って来ました。本当に洞窟の中はブルーだったのが感動的でした。
マルタ島もやっぱり所縁の地だったと後で気付きました。
聖ヨハネ騎士団とのご縁があるようですね。キプロス、ロードス島も十字軍の名残があるのは把握していましたが、ヨーロッパの歴史をあまり勉強して来なかった為に、本で理解出来ないから、自分の足で歩くことになっている気がします。何の映画だったが忘れてしまいしたが十字軍がエルサレムを占領して、エルサレムからキプロス、ロードス島と移動して、マルタ島を教皇から与えられて、移動したようでしたが、オスマン帝国の威力でロードス島は一敗地、オスマン帝国に来襲に備えて準備していた為に、マルタ島はその時代のバロック調の街並みが残っていて素敵な街並みでした。
マルタ島の首都は 騎士団総長のヴァレッタに由来しているようです。
聖ヨハネ大聖堂の中に、光と影の魔術師と呼ばれていたカラヴァッジョの作品を見ることが出来ました。
感動的な絵は「聖ヨハネの斬首」
食べ物も美味しかったです。
到着した日になぜか、映画を見ることにしました。
気軽な映画だと思い見たのが「天使と悪魔」というトムハンクスの主演の映画でしたが、監督がロン・ハワードだと分かっていれば見なかったかも知れません。
重い映画で長いし、途中、トイレ休憩もありました。
映画監督の立場で宗教議論をしているのはどうだろう?と思ってしいます。メル・ギブソンがユダヤ教を批判すると叩かれるが、バックグランドが違うと話題作になってしまう。
宗教など謎説きの連続だろうし、それを明かしたところで歴史を覆すことが出来るだろうか。
やっぱり映画はこころに染みる作品が良いと思う。
その映画を見ることで、人に親切に出来たり、人を愛することを思い出すことが出来れば要素になる方がお金を払って観る価値があると思う。
ありがとうございます。

1244625621_mbus
1244625621_malta2
1244625621_maltacat
1244625621_kazmalta
1244625621_bg2
1244625621_bg3
1244625621_bg1
1244625621_v1
1244625621_maltab
1244625621_malta3

人間交差点

1255678722_roze
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
明日からプチ・バカンスでマルタ島へお出かけして来ます。
パフォスに住み始めてから、3ヶ月が経った。
ニコシアに5年間も良く住めたと改めて関心する。
首都のニコシアは海も近くになく、夏は40度以上、冬は6度ぐらいだったが寒かった。
パフォスは湿気が多いから肌には良いが、髪の毛がくねってしまう。
夕日を見ながらのウォーキングコースは西に向かって歩くため、まだプールでも泳いでいないが、地中海風なオリーブ色になりつつある。
海では大人も子供も自然の中を満喫している。
そんな風景を目にすると、「生」を感じる。
日本だと30歳ぐらいから肌を見せるのに抵抗があり、泳ぎに行きたいと思っても温泉に行ってしまう。温泉も大好きだが、自然の海水に浸かることで癒されることもある。
去年の暮れに念願の死海でぷかぷかが出来たが、デジカメを更衣室に置いて手ぶらで行ったので、死海の海水がどんな感じだったか、画像でご披露出来ないのが残念だった。
12月だったが、あの日だけは暖かかった。
まさか、泳げると思っていなかっただけにとっても感激した。
豚インフルエンザが流行している中、世界各国からキプロスの血族を引いている人たちがこの6月から秋ごろまでキプロスに帰って来ることが多い。
旦那がイギリスからオーストラリアに移動したときに、色々と助けてくれた友人もパースに住んでいるが、1ヶ月ほどキプロスに滞在する予定らしい。25年ぶりだと言っていた、「来週の火曜日に時間があるから会おう!」と連絡があったらしいが、その日はマルタ島から帰って来る日なので、残念だけど会えそうにない。
その友人はキプロスからクルージングに出かけるようなので、帰って来てからの再会になりそうだ。
来週末ごろには、義理の妹がギリシャから来るらしい。
7月ごろは義理の姪っ子が婚約者を連れてキプロス入りする。ニコシアに住んでいる姪っ子の赤ちゃんの洗礼式もある。彼女の結婚式に訪れた人数は2000人ほどいたから、洗礼式も凄い人数が予想される。
8月にも親戚が訪れる。
9月もアメリカからイギリスの結婚式に参加した後にゴットサンがキプロス入りする予定だ。
その間、旦那の元奥さん家族もキプロスに入りしそうだ。
体力が勝負になりそうだけれど、すでに夏ばて気味な私がいる。
これからもっと暑くなるなか、外を歩くだけでもしんどい。
でも、出会いには感謝だ。
今の時代、自分さえ良ければという自己中心的な人たちが増えているが、他人のお世話が出来るチャンスを頂けて嬉しく思う。
9月のゴットサンとの再会が終わったら、父の様子が気になるので2年ぶりに里帰りをしようと思っている。
旦那も同行して貰いたいが、休みが取れそうにないようだ。
大腸癌から移転して膀胱癌、胃がんになり、胃を全部摘出してから食事が思うように消化できないらしい、一人で食事、洗濯、掃除もしている。ご近所の方で父のところにご飯を食べる女性がいる。「私がその人が料理してくれるの?」と聞くと、「いや、ワシが作って山盛りのご飯を食べて帰る。」と言うので、「お茶碗ぐらいは洗ってくれるの?」というと、「そんなことはしない・・・。」と言いつつ、嬉しいみたいだが、あまり無理しないようにと告げると、「ありがとう!」との返答が帰ってくる。
先週電話で話していると、ころんだり、腕を擦り剥いたりしているというので、「食べたいけど吐いちゃうから・・・」と元気のなさそうな声だった。
「何を今日は作って食べたの?」と尋ねると、「かぼちゃの煮つけと魚の煮付けだけど食べれない」と言うので、「他は?」と聞くと「オロナミンCを毎日1本飲んでいる」と言うので「なんで、炭酸水は胃がないから止めたら?」というと、「XXさんが好きなんだよ。」との返答。「XXさんが好きでも、お茶にしたら。」「あと、体力がないときはポカリスエットが良いよ。」と言うと、「あぁ〜、ちょっと待って、ポカリ?何?」と何度も繰り返したが「ス」以降の発音が聞き取れないので、「分かった。後でXXさんの携帯電話に送って、紙に書いて貰ってスーパーで買ってね。」というと、「分かった。ありがとう!」と弱気だった。週に1度電話したり、毎日電話するときもある。テレビでお相撲や野球などのイベントがある時期は以外と元気だが、食事が思うように取れない様子で身長が高い方なので体重が47キロほどしかなく、体力不足だろうと思える。
おととい電話をしたら、とっても元気なので驚いた。
「どうしたの?」と聞くと、「分からないけど、ポカリを飲んだよ!これを水の代わりにチンするときに少し入れると美味しいね。」というので驚いた。
「ポカリスエットとご飯?」どんな味か考えたがちょっと甘そう?と思いつつ、自作のレシピで元気になってくれればと思った。
一人ぐらしで病弱だが、余命3ヶ月と言われたが、もうすぐ2年が経つ。
これから老人が増えて行くが、家族と暮らせる老人は少なくなって行くだろう。
老人の父にも老人ホームを勧めたが、狭い部屋で難聴の父は他の人と話すのも気兼ねするし、一人でやって行けるところまでやってみたいという意志があるのを尊重したい。
戦後の高度成長期に真面目に働き、余暇の時間も少なく、汗水垂らして働いて来た昭和の人々には尊敬する。
そんな人たちを姥捨て山に捨てる行為は、国のカルマになってしまわないようにして欲しい。
新しい生命も尊いが、自分達を犠牲にして御国の為を思い頑張って来た人を粗末に扱ってはならないと思う。
人間、自分だけは人の世話にはならないと若いときに豪語していた人間でも突然の病魔や何かのきっかけで助けを必要にすることもある。
若いときに自己中心的でわが道を行っていた人でも、晩年にそのツケが跳ね返って来ることがある。
人間への愛を持って生きましょう。
周囲の人々を大事にして、お年寄りや子供に愛を持って接することで、自分自身の人生も豊かになります。
自分自身を知り、自分を愛することで、他者も愛することが出来ます。
自分自身を知ることは、自分の弱いところ、性格的な欠点を改善することはいくつになっても可能ですし、運命を切り開くチャンスにもなります。
そして、自分を知ることで、自分を見つめなおすことが来ます。
バランスの取れた人格になることで、深みのある人生を送れるでしょう。
お読み下さり、ありがとうございます。
ありがとうございます。

1244191928_cypair