日別アーカイブ: 2007年7月13日

ちょっと生きるとは何か考えてみるお話 パート1

13.1:350:192:0:0:ochanoko1:center:1:1:ちょっと生きるのが楽になるだろう・・・。ありがとうございます。:
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
いつも書くと長文になってしまいます。さらに、パート1とか題名に付けてしまったのですが・・・、映画と同じでなぜか終わりがないときもあります。
ここ最近は日本でも格差社会と呼ばれるようになって来ています。
これは競争社会にいると致し方ないことになります。
でも、生きていかなければいけません・・・。
では、どうすれば競争社会で幸せになれるでしょうか。
いつの時代も選択方法があったと思います。
1つは貧しいことが不幸という考え方。幸福になるために貧しさから開放されなければなりません。貧しくてパンが食べれなければ、ケーキを食べれば良いとか、ケーキを大きく作り、それを分ければ良いという考えでしょう。
もう一つは、二人の人間にケーキが一個、パンが一個しかなければ、半分にして分けて食べようと言う考え方。
これが仏教で言う布施の考え方、宗教の方法ですね。
一つのケーキを二人で分けることは「人よし 我よし」の意味が含まれています。
お兄ちゃんがお土産に貰った小さなケーキを妹にもあげて、半分にして食べた。
なぜ、半分にして食べたのでしょう。
もしも、妹が欲しいそうにしていて、かわいそうだから半分あげた。という思いはいけません。
かわいそうという思うがあると、喧嘩したときはあげたくないという気持ちにお兄ちゃんはなるでしょう。
今日は気分が良いから、あげる。でも、午後からは気分が悪いからあげない。
そして、「かわいそうだ」という思いは、相手を見下していたり、哀れみであって、卑下して物事を決めるこころの癖に繋がります。
そうなると、妹がケーキを貰って来て、お返しに半分にすることも悪いことではありませんが、それだとお中元やお歳暮と同じで、お返しがある人にしかあげれないことになります。
仏教的にはそれでは駄目なんです。
仏教での教えは、「一つのケーキを二人で分けて食べた方が美味しい」ということなんです。
「あなたと一緒に食べて美味しくなりました。ありがとうございます。」というあげたほうがお礼をいうのが、それがお布施なんです。

現代の日本の社会ではどうでしょうか。
ケーキを大きくする考えの方に忙しいでしょう。
ケーキが大きくなっても、さらに大きいのが良いと思う人の方が多いでしょう。
資本主義は自由競争ですから、ケーキを大きくするために社会全体が競争社会にならないといけない仕組みです。競争に勝ったら、褒美でケーキが多く貰える。負けたものにはお零れぐらいは貰えるか、なしというときもあるでしょう。
1つのバナナを二人で分けても、沢山バナナを食べたい人にとっては、満足感はないでしょう。競争社会であれば、買ったものに満足感をあたえ、負けた者には敗北感を持たせることで、次は勝つぞと意欲を持たせることで、社会全体の富が増やせるわけです。負けた者は、敗北感や不満感を変化球にして、次はバナナを2本手にいれる方法を考えようとするわけです。
その社会にいると負けた者は屈辱感の塊を持ち、勝った者はこの次はどうなるか分らないから危機感を持って生きる。勝っている間はバナナが1本多いので、それを賄賂として審判であるお国に贈呈することもあるでしょう。
そういう条件では、誰も満足していないことになります。
どちらも不幸であるでしょう。誰も幸せでないから、良い子で、頭が良く、良い家庭の子供が良い大学を出て、社会に出ると、精神的に考えるわけです。そして、ストレスを抱え、ある日、突然、会社に出かけるのも嫌になるのです。
昭和30代ごろであれば、家が貧しくて大学に行けないこともあって、下から伸し上がって行き、貧しさをバネに、自分はあんな人達に負けてたまるかという伝説を作った松下さんとかいらっしゃると思います。だから、何も自分の才能や人格が否定されているわけでなく、ほとんどの人たちが戦後の貧しさを苦労しているから、精神的に逃げ道があったのです。
でも、最近ではその逃げ道がないのです。
売り上げが上がらないのは本当は社会の仕組みに問題があるでしょう。
努力しても、上司からあいつは実力がないからだと最初から決め付けられていることもあるのです。本当にこんな社会にいると辛いのは普通の人で、ロボットでなければ、人を蹴落として自分さえ良ければという人はいないでしょう。
今の日本はとっても豊かになっています。誰でも何かしようと思えば出来る社会になっています。だから余計に下から伸し上がって来る人間には逃げ道がないのです。
だから多くの人は不幸なのです。
若い人がやる気を失っても当然なんです。
日本の若い人の希望する職業は芸人だったり、フリーターになりたいと追いやったのも、実は競争社会なのです。
競争が悪いとか、良いとかよりも、努力と競争は違うでしょう。自分で努力して何とか伸し上がろうと思う気持ちが、実は自分を苦しくしているのではないでしょうか。
楽しい努力は生きがいにもなります。しかし、頑張らなきゃ、頑張らなきゃと必死に歯を食いしばるような努力は身体にも心にも大きなストレスになるでしょう。
自分を否定した努力は、私が駄目だ・・・、もっと頑張らなければ・・・と呪縛してしまい、バナナ、バナナが手に入れられない、私は貧乏だ・・・。
貧乏であってはいけないのだ、貧乏では幸せではない。バナナが欲しい・・・。
そういう呪縛している人はいくら必死になって富をえても、また、自分を否定してしまうのです。
日本はもうすぐ原爆投下から戦後62年という年月が流れています。
しかし、日本の学校を見てみると「給食」を出しています。これは戦後アメリカ軍のアイデアで同じモノを同じだけ与えることで満足させたつまり配給制度とあまり変わらないのです。
食生活も変化している中、そして、給食費が払えない、払わない親たちに平等という意味も分からないでしょうから、文句をいう親たちにはお弁当でも作らせれば良いのです。お弁当を作っても多分出来合いのモノを入れるでしょう。
そして、もう一つ、日本の学校は自分達で子供にも教室の掃除をさせるのはどうなんでしょう。禅が理解出来ていた一昔であれば、それも使わせて頂いている教室ですから、掃除をするのは当たり前ですが、今ではその掃除をさせるのに、先生達も子供達を誘導出来ずにストレスで休職する人達もいるそうですから、掃除する人を雇う方が良いのではないでしょうか。他の国の学校で子供達が教室を掃除するのは日本ぐらいでしょうか。
日本の学校は自己否定することを教えます。たとえば、怠けてはいけませんよ、もっと勉強しなさい、掃除もしなさい、イソップ童話の「ありときりぎりす」を子供のころにインプットするのです。あのお話は実は日本で違うニュアンスだったりします。
ギリシャ人のイソップは動物、昆虫を良くみておりますから、キリギリスを助けています。もちろん、また違う意味で助けていますけど・・・。
そして、日本の場合、「出てくる杭は打て!」という言葉もあります。学校で道徳を教え込みのですが、人格改造にしているようにも思えます。
ですから、いじめも陰湿、社会に出ても大人でさえもいじめをします。
バナナが保持出来る人がすぐ下の人を使い、バナナを持っていない弱い立場の人達をいじめているのです。
無垢な子供は大人の教えを聞き入れるだけです。間違っているとか、間違っていないとか分りません。白を黒だと言われると、そう信じことでしょう。
子供は本来なら、他人を懲らしめてやろうとか思わないはずなんです。一緒に遊ぶ中で喧嘩になって殴ったり、叩いたりするのは、猫でも犬でもじゃれ合います。そこから、人間関係を学ぶこともあるです。しかし、学校からは自己否定を学び、大人になって海外留学などすると自己肯定的な努力をする国が多いことにびっくりするのです。
日本人は引き算が上手いのです。外国人は不思議と足し算が上手いのです。
そう意味では、職業の評価をしています。どの職業が収入が高い、低い。
高い収入を稼いでいる人は、汚い仕事をする人を見下しているときもあるでしょう。
本来なら生きる為に努力している汚い職業の人を見下すことは、誰が決めたのでしょう。
これは恐ろしい社会です。
善悪を計るモノサシは人間を不幸にします。
キリスト教でも、善悪を知る木の実を食べてはならないと神は禁じておれました。
ですから、私たち人間が善だ悪だといい始めたことが罪なんです。
かなり長くなりそうですから、またの機会にパート2を書きます。
いつも読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。
良い週末をお過ごし下さい。

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